母がくれた出会い
ベルナデッタ K・Y

母は昨年十月八日に帰天しました。

九十三歳でした。

三日後の十一日、長崎神父様にお願いして枚方教会で葬儀ミサを挙げていただきました。

母が亡くなった後、さまざまな手続きに追われ、あまり実感を伴わないまま過ごしていましたが、ふと気が付くと母を探している自分がいました。

せめて遺品の整理をしようと残された日記や写真を見ているうちに、母の純粋な信仰を知ることになりました。

カトリック信者の両親のもと、四人姉弟の二番目として生まれたわたしは、生後二十二日目に京都の衣笠教会で洗礼を受けました。

これがわたしにとってのいわば初めての神様との出会いです。

もちろん当時はそんなことは知るはずもありませんが。

ものごころついてからは、神様は家族と同じように当たり前の存在でした。

毎週日曜日に教会に行くのも、ときにいやだなあと思ったりしましたが、自然なことでした。

でも、大学を卒業して就職して以降、教会からしだいに足が遠のいていきました。

とくに親の反対を押し切って、新たに就職口を見つけた東京に移ってからは、年に三、四回の帰省時以外は教会に行くこともなく過ごしていました。

二十四年前、父が亡くなり、母は一人になりましたが、近くに弟家族と姉家族がいてくれるおかげで、わたしも安心して東京で一人暮らしを続けていました。

それから十数年、さすがに八十歳を過ぎて少しボケてきた母を一人にしておくのも心配で、わたしは枚方に帰り、一緒に住むことにしました。

間もなく母は慢性腎不全から透析を受けるようになりました。

週三回、四時間近くの拘束はきつかったと思いますが、日曜日には教会に行くのを楽しみにしていて、わたしもできるだけ同行するようにしていました。

ところが二〇一六年に家の中で転倒し、硬膜下血腫を起こしたのがきっかけで、母は車椅子生活になり、教会にも行けなくなりました。

母は愚痴をこぼしたりはしませんでしたが、本当につらかったと思います。

母が日頃から親しくしていた教会のNさんに相談し、神父様に病院や自宅にご聖体を持ってきていただき、母も本当に喜んでいたのを覚えています。

さらに数年がたち、昨年一月、母は発熱を繰り返し、入院。

いつ命が尽きてもおかしくないと言われ、またNさんの助けをお借りして長崎神父様に連絡を取り、病院で病者の塗油の秘蹟を授けていただきました。

この時の安堵感は忘れることができません。

コロナ禍で面会もできないまま送るのは耐えられないと、退院させてから半年以上、母はがんばってくれました。

母が亡くなってから目にした日記や写真からは、一人暮らしをしていたとき、教会のさまざまな集まりに参加し、聖書を勉強し、生き生きと過ごしていた様子が窺がえます。

中でもルルドとヌヴェールへの旅での写真の母は、はじける笑顔を見せていました。

日記では教会に行けなかった悔しさもつづられています。

母が行きたがっていた教会に一緒に行こう。

わたしは昔の習慣を取り戻しました。おかげで、多くの信者さんとの再会、出会いがありました。

今は、感謝の気持ちでいっぱいです。