真理の自由(日本基督教団 森小路教会 J.S) 河北朝祷会より(2018.2.6 第207回)

(ヨハネによる福音書 8章31、32節)

この聖句は、あちらこちらの図書館や学校に掲げられていることがあります。ある意味真理とか自由と言いますとアカデミックで思想的な香りがするものです。学校自体が真理なるものの探究というのを目指していますし、図書館というのは知識の宝庫です。またリベラルアーツというように、自由というのは学問的態度と結びついているのではないでしょうか。

しかしここでイエスさまが言われる真理と自由についてもう一度よく考えてみたいと思うのです。イエス様は何もここで学問による真理を探求せよとか、それによる自由を言われているわけではないのです。真理とは、イエスさまが後程14章で「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われているように、イエス様ご自身のことなのです。哲学的真理は何であるか2千年以上議論され続けていますが、いろいろな考え方があり考え方は多様になったものの、真理についての把握は昔とあまり変わらないのです。しかしキリストの真理は違うのです。すでに2千年前にイエス・キリストの到来とともにこの世に真理が示されたのです。ここで言われている真理というのは多様なものではなく、一つです。イエス・キリストお一人なのです。ですからわたしどもは人間的知恵を絞って小さな頭脳で深淵な真理を求めるという作業を続けるということよりも、すでに示された真理を信じてそれについて深く学ぶべきなのです。そのように一つの真理について捕らわれていることによって真の自由があるのです。

様々なことに関心があり、あれこれと思いめぐらせて何かを求め続けるというのは本当の意味で自由な思考ではないのです。わたしどもはこの世の関心によって、不自由になっているのです。キリストなる真理一つに縛られることこそ、私どもは本当にこの世の束縛から解放されるのです。イエス・キリストを通ってこそ真理に到達できる。イエス・キリストのみがその道程であるのです。そしてイエス・キリストはそこへ至る道であるだけでなく、その目標、到達点でもあるのです。イエス様は言われます、私を信じなさい、そうすれば真の父なる神を知ることができ、本当の自由が得られると。

このように「ユダヤ人」に語りかけられます。ここで注意しなければならないのはイエスさまが語りかけている相手を、ヨハネ福音書が「ユダヤ人」と記していることです。お気づきかもしれませんがこの第4福音書では、イエス様に敵対するものが「ユダヤ人」として出て来ます。イエス様を陥れようとするもの、十字架にかけようとするものなどがそのように表されています。そのため戦後ドイツは戦時中のユダヤ人虐殺の反省もあり、ヨハネによる福音書やヨハネ受難曲については一時期自粛されたことがあるというのを聞いたことがあります。イエス様はご自分に敵対するものでありながらもご自身の言葉に耳を傾けようとしている者に対して、そして今は聞いているかもしれないがいずれ自分を十字架につけようとすることを見通しておられつつも、あえて救いのみ言葉を宣べておられるのです。