修道院の食事のときなど、各自の部屋の中にものが多過ぎやしないか整理整頓されているかどうか等、ときおり司祭同士の部屋の状態が話題になることがあります。アヴィラの聖テレジアにも心を部屋にたとえて説明する『霊魂の城』という著作もある通り、確かに人の心の状態というのは個々の部屋に反映されるのかもしれません。
ところで、部屋と心の状態の関連ということで思い出すことがあります。助祭としてクリスマスを迎えようとしていた時のこと、それまで二年ほど風邪で寝込んだことがなく健康には自信をもっていた私はクリスマスの三日ほど前に突然高熱に見舞われダウンしてしまいました。幸いただの風邪だったので何とかクリスマスの説教台に立つことができたのですが、高熱でうなされている間、自らの不甲斐なさを嘆くとともに、「よりによってこんな時期に・・・神様何とかしてください」と懇願するだけでなす術もない私のもとに、養成担当司祭をはじめクラレチアン会の兄弟たちが代わる代わるに食事を運んでくれたり、「必要なものがあれば何でも言いつけて・・・」と温かいことばをかけてくれました。
そのときの私の部屋の状態といえば、前の晩に倒れるようにベッドに入ったため机の上には書きかけのクリスマスカードや年賀状などが散らかったままで、人を入れるのも憚られたのですが、片付ける気力も体力もなかったのでそのままにしておきました。私にとってこの出来事は自分の無力さを知るとともに、自分が思い描いていた計画が思い通りには運ばないことをあらためて知る機会となりました。
キリスト信者であれば誰であれ「よく祈れた。いい準備が出来た」というクリスマスの迎え方が理想なのかもしれませんが、この年の私に神様が用意してくれたクリスマスの準備プランは「キリストの愛」に駆られた兄弟の善意を素直な気持ちで受け入れることだったようです。
あの時の私と同じく御降誕の時を「十分に心の準備ができなかったな・・・」と思いながら迎えることになる方もいるかもしれません。しかし、御降誕の場としてとうてい綺麗とはいえない馬小屋を選ばれたように、イエス様はいまだ散らかったままで決して明るいとはいえない私たちの心の部屋にも喜んで来てくれるはずです。なぜならイエス様は自らの御誕生が馬小屋と周囲を照らしたのと同様、私たち全ての人の心の部屋が御誕生によってもたらされる光によって明るくなる必要があることをご存知だからです。
ですから私たちの心の状態がどのようなときでも信頼の心で「イエス様、散らかっていますがどうぞ。あなたは全てをご存知ですから」と心の扉を開けて待つことができればどんなに素晴らしいことでしょう。