昨年12月12日、枚方教会の保護聖人であるグァダルーペの聖母の記念日にポルトガルのファチマに聖地巡礼に行ってきました。実は前の週に五日間、インドネシアに会議のために滞在していました。温暖なインドネシアから枚方修道院へとひとまずきびすを返し、その2日後に寒い冬のヨーロッパに行くことを思うと体力的にも厳しく正直なところ気乗りがしませんでした。
海外への巡礼というと今の時代は快適なホテルに宿泊して美味しい食事付きで何不自由ない旅程が組まれますが、今回の巡礼は4泊6日の強行スケジュールで修道院に宿泊です。そんな時にどこかで聞いた「巡礼とは何か不便さが伴わないと霊的な実りも少ない」という言葉を思い出して、「この疲れを捧げて出掛けるならばきっと何らかの恵みを得られるであろう」と自分に言い聞かせて旅立ちました。
この旅には車椅子を必要とするひとりの婦人が参加されていました。車椅子を押したり身の回りの世話係としてこの方のお友達が同行されていましたが、男性の参加者が私ひとりだったこともあり、ファチマの巡礼地に着いてから街中を歩くときには主に私が車椅子を押す役目を引き受けました。
3日目になると車椅子の婦人も私に慣れてきたのか、午前中の巡礼を終えて修道院に戻る途上、車椅子を押す私に私の信仰の歩みや私自身のマリア様への信心について唐突に聞いてきました。信者さんにとっては初対面の司祭ですから自然なことだとは思いましたが、違う人々から同じ質問を数多く受けてきたため、最近ではこういった質問に答えるのもすっかり億劫になって、「ものぐさ流の超簡潔召命物語」で済ませることにすっかり慣れっこになっていました。しかし、その婦人のどこか慎ましい聞き方に拠るところもあったのか、ここ数年来ほとんど思い出すこともなかった自分の信仰の歩みにおける大切な出来事、感謝を忘れてはならない出来事の数々が不思議と口をついて出ました。
私たち司祭、修道者は毎晩「マリアの賛歌」を唱えます。この賛歌を唱えるたびに自分の身に起こった神様の恵みのひとつひとつに感謝する素朴なマリア様に出会えるはずです。しかし最近の自分の信仰生活を振り返ってみると、小さなことに感謝を忘れるばかりか今に至るまでの歩みを導いてくださった神様からの贈物を心の奥にしまい込み、どこに片付けたのかもわからなくなっていたようです。
今回の巡礼を通じて皆さんに喜んでいただけるような出来事、特別なインスピレーションもいただくことはありませんでしたが、ファチマのマリア様は私の心の奥にしまいこんでいた宝を探し、埃を払うお手伝いをしてくれたようです。沐浴といえば聖地ルルドが有名ですが、今回の巡礼は私にとって霊的な意味での沐浴になったようです。