私のきらいな聖句 ー 枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より(2017.3.9 第198回)

私は、クリスチャンになって42年。牧師になって34年。祈りにおいて幼子であった私の歩みを振り返りたい。

最初から、「祈り」がよく分からなかった。私の祈りの指針としたのが、エフェソ6章18節だった。「どのような時にも『霊』に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」どのような時にもどんな時にも、祈り願いなさいと招いてくれるのは良いし、ありがたい。

牧師になって、駆け出しの頃、定期的に食事を抜いて、「真剣に」祈ることを始めた。教会の課題のある人たちが、問題から成長していかれるようにと祈るためであった。しかし、数ヶ月祈ったが、問題には、変化が見えなかった。私の内に神への不満すら生まれ、「私には、神様に喜ばれるような祈りはとてもできない」と、これ以上時間を取って真剣に祈るのはやってられないとなってしまった。

しかし、当時、地域の会館を借りて礼拝をしていたので、会堂が与えられるように皆で祈っていたが、ある礼拝の準備の時に、「来年の今頃に会堂が与えられる」と、神からの示しが私に与えられたが、結果として、翌年の同じ日に、会堂が備えられて最初の礼拝を持つことができた。ただ神の正確な恵みの業に驚く他なかった。『霊』に助けられてこれがよく分からなかった。『霊』すなわち、神の御霊の助けを受けて祈っているのか、受けないで祈っているのかが、つかめなかった。結局、私が不信仰な祈りで祈るよりも、むしろ神のために行動する方が、神は喜ばれるのではないかという思いで、長い年月を、熱心に祈らずに過ごしてしまったことになる。

ローマ8章26節「同様に、『霊』も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」とある。神は、不信仰な私を、結局この御言葉にあるように導き続けてくださった。私が祈れてない時ですら、『霊』が、私のために、苦しい執り成しなしの祈りを続けてくださったことになる。すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。人々のために祈り続けるということができない。忙しい中で、無理だと思ってしまう。「祈ったからって、人がそう変わるわけじゃない。成長するわけじゃない」と思っている自分がいる。

パウロは、人の成長のために、どのように祈ったのだろう?10年ほど前に、次の言葉が示された。エフェソ3章16節「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて(くださるように)」相手の人や自分の信仰のレベルに応じて神が強くしてくださるようにではなく、神の栄光のレベルに従って強くされるようにと、こんな厚かましい祈りをしていいんだと気づかされ、こう祈るようになった。

祈ることが楽しくなった。長く、なかなか成長しないと思ってきた方々が、目に見えて、神を喜ぶクリスチャンに変わっていかれた。冒頭の、嫌いだった聖句が大好きな聖句になってきた。

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