イエスは使徒たちを宣教に遣わすにあたり、「異邦人の道に行ってはならない、むしろ、イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい」と言われます。
世界で最初のユダヤ人はアブラハムでした。彼が神によって選ばれたのは、全ての民が神の祝福に入る為でした。
やがて、アブラハムから多くの子孫が生まれました。イエスは、まずユダヤ人が悔い改めて回心し、回心したユダヤの民が神の祝福を、生き方で示すことになると考えていました。
しかし、そんなイエスの考え方に転機が訪れます。
それは百人隊長とシリア・フェニキアの女との出会いでした。
“信仰のしるし
助任司祭 梅﨑 隆一” の続きを読む
信仰のしるし
振り返ってみる
助任司祭 梅﨑隆一神父
「神の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13-45)。
このたとえ話の目的が「商売とは何か」を語ることであれば、「その真珠を高く売って、元手を回収し、更に大きな儲けを手に入れた。」という結論になると思います。
しかし神の国のたとえ話ですから、商人は儲けのためではなく、真珠そのものを手に入れるために、自分の持ち物をすっかり売り払ったということではないかと思います。
「真珠があまりにも素晴らしいもの」だったので商人であることを辞めてしまったのでしょう。
持ち物をすっかり売り払い、人生や命をかけても悔いの無い生き方って何だろう。
そんな問いを持つ私は神様に呼ばれ、36年前に私は、カバン一つに荷物を入れて修道院に入りました。
呼ばれた確信はありますが、私は弱いので同じ気持ちをずっと維持して生きることができません。
神の国の真珠とは社会の常識から見たらありふれたものです。
「子どもとお菓子を分け合って、幸せな気分になること」
“振り返ってみる
助任司祭 梅﨑隆一神父” の続きを読む
祈りとお話 梅﨑隆一神父
「あなたがたは異邦人のようにくどくどと述べてはならない。
異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」(マタイ6・7)。
異邦人は窮地に立たされたときに、様々な神々の名前を唱え、本当の神様の名前を唱えることができたときに願いが叶うと考えていた。
ですから本当の名前を唱えることができ、自分の願いが叶った時には、その名前を誰にも話さずに自分だけの秘密にしたそうです。
ヨナ書の中でもヨナが乗っていた船が嵐に遭った時、ヨナは船底で寝ていたのですが、船長がヨナのところにやってきて「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ、神が気づいて助けてくれるかもしれない」(ヨナ1・6)と言っています。
そして名前を呼ばれた神は出て行かなければならないと考えられていた。ですから異邦人にとって祈りとは神々を支配する方法であったと言えます。
教会の子どもたちに「お祈りって何?」と質問したら、判を押したように「神様とのお話」という答えがかえってきます。
“祈りとお話 梅﨑隆一神父” の続きを読む
原罪から解かれたけれど
梅﨑隆一神父
教会の教えでは、人は洗礼の後、原罪から解かれるとあります。
ですからキリスト者は人生のある時からマリア様のように、無原罪になります。
それなのに、教会の中に罪が散見されるのは何故なのか。
原罪の原因はアダムとエバが、「(善悪の知識の木の実を)取って食べるな」という神様の声ではなく、「食べれば神のようになれる」という、この世で作られた最も賢い存在の声に聴き従ったこと。
また神の言葉をないがしろにするという罪を犯したのに、その罪を認めなかったためです。
こうして原罪がアダムとエバから生まれた全ての人に影響を与えています。 “原罪から解かれたけれど
梅﨑隆一神父” の続きを読む
永遠の息吹 梅﨑隆一神父
司祭になったら、少なくとも毎週日曜日は子どもと遊び、一日が終わるという人生を過ごす予定でした。
しかし現在、数か月間子どもと関われないのが当たり前の日々を過ごしています。
毎週日曜日、少なくともミサの中で「どんな人も神に似せて造られ、一人ひとりは価値ある存在です」と教えてもらえるのに、月曜日から土曜日の間「沢山の人が羨むような価値を手に入れている者だけが価値ある人間である」と教えられる。
子どもの頃からそのようなジレンマを感じていたから、少なくとも週に一回、教会が本来の人間らしさを取り戻せる場所になればと思っています。
そして子どもたちは、大人に囲まれて、お友達と楽しく過ごせるだけで良いのではないかと思います。
“永遠の息吹 梅﨑隆一神父” の続きを読む
不幸の乗り越え方
クラレチアン宣教会 梅﨑隆一
コロナ禍の状態が四年目に入り、ウクライナでの戦争は一年が過ぎ、トルコでの地震で沢山の方が被災されました。
悲しいニュースが遠く離れたものであったとしても、日常の生活を送っている私たち、また子どもたちの心にも大きな影を落としています。
こうして私たちは人が永遠に生きられることがないことを、見せつけられています。
哲学者梅原猛は青年時代、第二次世界大戦中、人生が短いものであると覚悟していた。
そして死を見つめる実存哲学を深めたが、やがてその考えに不満を感じる。
(実存主義には)「二羽の小鳥が、寒い夜に、互いに羽を寄せて、暖めあうような、そんな心がたりないのである。二羽の小鳥が羽を寄せ合って寝るその一瞬に、しばし、死のことを忘れてもどうしてそれが悪いのか、その哲学は、人をあまり冷たい目で見すぎている。」(梅原猛著『学問のすすめ』)
そこから彼は「闇のパトス」という論文を書き、死の哲学から解放され、不安や絶望に変えて笑いを根源的な人間の感情と考え、研究を始めます。 “不幸の乗り越え方
クラレチアン宣教会 梅﨑隆一” の続きを読む
人間マリア
クラレチアン宣教会 梅﨑隆一神父
イエスは神であり人間です。
しかしイエスは神であるけれど人間ではない、逆に人間であるけど神ではないと言うときに、異端となります。
異端という言葉、英語では極端という意味があります。
極端になりすぎてイエスの人間性あるいは神性を否定するとき、人は教会の内側に留まることができず、教会の外側の人となります。
教会がこの点を強調するのは、人間が神によってどのように救われているかを説明するためです。
キリスト教が主張する救いは、イエスと同じ神の子どもになることです。
イエスが神であり人間であるように、私たち人間に聖霊が一緒に住んでくださるなら、私たちはイエスと同じ神の子どもとなります。
聖霊の働きなしに私たちは救われることはありません。
等価でない交換
協力司祭 梅﨑隆一
先史時代、交換方法の一つに縄張りの境界に交換したいものを置き、もらった者は代わりのものを置いて立ち去るというのがあったそうです。
交換を長く続ける秘訣は、相手にそのものの価値を簡単に悟らせない事だそうです。
素人考えですが、等価交換なら交換はすぐに終わってしまっただろうし、また相手に損害を与えるものでも交換は続かなくなります。
古代の人は本当に価値あるものを置いたのではないかと思う。
『どうぞのいす』という絵本は座ってもらうために作った椅子の上にものを置いたことから交換が始まります。
古代の人も様々な思いをもって、良いものをそこに置いたのではないかと思います。 “等価でない交換
協力司祭 梅﨑隆一” の続きを読む
使命を生きる
河北ブロック協力司祭 梅﨑 隆一
隠遁者のスポンサーをしていた高齢の女性が、「彼の生活が使命に忠実であるのかを知りたい」と考え、お忍びで見に行くことにしました。
彼女は隠遁者の住んでいるところに行き隠れて見ていると、隠遁者のもとに一人の若い女性がやってきた。
隠遁者はその女性に対し、「私は隠遁者で清い生活を保たなければならないから帰れ」と高圧的な態度で追い返した。
それを見た高齢の女性は、隠遁者のスポンサーをやめたそうです。
これは三年前スペインで研修をしていたときのスリランカの神父様のお説教のお話で、スポンサーを止めた理由も話してくださったのですが、私の英語力の無さが災いして、肝心の部分は分からないままです。
ただこの話が、使命への忠実とは清さを守ることではないことは分かります。 “使命を生きる
河北ブロック協力司祭 梅﨑 隆一” の続きを読む
愛を育むための孤独 枚方教会 協力司祭 梅﨑隆一
平成25年(2013)に枚方教会での役割を終えて、平成28年(2016)からは東京の修道院で生活していました。
東京への異動の理由は修道院の掃除と会計の整理でしたから、仕事が終わったらすぐにお払い箱になると思っていたのに、五年間いることになりました。
それとは別に、私個人は孤独を受け入れることを東京での生活の目的の一つにしました。
E・フロム著『愛するということ』によると、「愛」という言葉を使っていても、「愛すること」と「愛されること」の意味することは全く逆であるといいます。
「愛されたい」人は人から認められることを望んでおり、その根底には孤独に対する恐れがある。
人は孤独になると人とのつながりを求めて、人から認められているのか気になってしまう。
LINEに[既読]がついても返信がないことにイライラする原因は、そういったところにあるようです。
“愛を育むための孤独 枚方教会 協力司祭 梅﨑隆一” の続きを読む