終油の秘跡?  病者の秘跡?  フェリックス 神父

あるお嫁さんが、教会に行って主任神父様に、姑さんが臨終だったので、秘跡を授けに来てくださるようにお願いしました。それを聞いた神父がこのように答えました。

「私が行ったら終油の秘跡になります。助任の若い神父が行ったら病者の秘跡になる。どちらに行ってほしいですか」と。お嫁さんが、「やはり、主任神父様に来ていただきたい」と答えたそうです。病人が助かる見込みがある間に神父を呼ばないで、医者があきらめた時だけ呼べばいい。まさに死ぬ寸前の秘跡。死にそうな人を天国に送り込むためのフリーパスのようなこと。

確かに、ヴァチカン公会議(50年前)まではそのように教えられたのは事実です。しかし、公会議によって「原点に戻ろう」という基本理念の下で教会があらゆることを見直しました。秘跡の神学と司牧もその一つ。終油の秘跡が病者の秘跡に変わりました。病者の秘跡は、「死」ということと関係なく、神様が重病のために苦しんでいる信者とともに苦しみ、痛みを分かち合ってくだることのしるしです。

病人が一番苦しい時に神様に見放されたのではなく、神様が一緒にいて、力と慰めを与えてくださる。一緒に病気と闘い、場合によってその病気を受け入れるための力となります。その手助けになるのは、病者の秘跡です。もちろん、また場合によって、死を受け入れざるをえないときの支えにもあります。

9月に教会で敬老の祝いの日がありました。ミサの中で75歳以上の方のための病者の秘跡の合同式がありました。教会に来られるぐらい元気そうな人ばかりでしたが、この場合、病者の秘跡の意味は何でしょうか。75歳の超えると元気な人でも、これから人生の歩みの最後の段階に入ることになります。

そんなことを考えたくなくても物理的な事実です。体が少しずつ衰えてきて、次第に終わりを迎えることになります。最後まで信仰を貫いて、イエスとともにその終わりを迎えたい、準備をしたいという決心のしるしとして病者の秘跡を受けることができます。

急なことであれば別ですが、洗礼を受けている家族の誰かが病気になったら、秘跡のことを臨終になるまで待たないでください。

もったいなすぎる!人の苦しみが一番分かっているのは十字架の上で亡くなったイエスです。病気に苦しむ人と一緒にいたいのです。