当然な祈り  ー枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より(2015.11.12 第184回)

私と祈り

クリスチャンになって40年。その大半において、祈りは「よく分からない」と思ってきた。「祈りなさい」と聖書にあるので、一応は祈るのだが、聞かれることもあり、聞かれないと思うこともあり、どうも捕らえどころがない。祈りが聞かれるには、どれほど強い信仰が必要なのだろうか、と思ってきた。エフェソ3章14‐19節には、あまりにもスケールの大きな祈りがある。ここでは、祈りに全く自信がなくても、確信をもって祈れることを教えてくれる。

私たちの信仰深さによらない祈り

16節に〈どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて・・・くださるように〉とある。パウロは「神の豊かさに応じて」、神が「聖霊と力をもって」強めてくださるようにと祈っている。「私たちの信仰の豊かさ、強さに応じて」ではないので、ホッとする。自分の信仰が弱くても関係ない。「神の豊かさに応じて」ならば、神が、どれほど豊かに私たちを強めてくださることだろうか。

神の願いに沿った祈り

18‐19節では、私たちの常識をはるかに超えた、すごい祈りがされている。〈あなたがたが・・・キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり・・・神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。〉「人間が神ご自身のように満たされるなんてあり得ない」と思えるような祈りだ。一体、人間とは何なのだろう。創世記1章26‐27節では、神が人間を、〈我々にかたどり、我々に似せて〉、〈ご自分にかたどって〉、〈神にかたどって〉と、ご自身にとてもよく似た者としてお造りになったことが強調されている。とすれば、人間が、〈神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり〉ということは、初めから神さまの願いの中心にあったこと、ということになる。さらに創世記のその箇所では、神は、人間の役割として、地上のすべてのものを支配する権威を人間に与えておられる。

祈った結果

長い間親しい交わりをしてきたクリスチャンの中に、信仰は大変熱心ではあるが、自分の主張をよく通そうとされる方がおられた。私はその方のことを「何十年もクリスチャンなのに、なぜ人格的な成長が遅いのだろう」とすら思ってきた。しかし、その人の成長が見られないのは、私が神さまにそうお願いしないからではないか、と示された。それ以来、「その人が神の満ちあふれる豊かさに満たされるように」と、度々、真剣に祈るようにした。ほんの数年のうちに、目に見えて、穏やかな人に変わっていかれた。忍耐をもってキリストを伝え、人を救いにまで導かれるようになられた。また、身近なクリスチャンで、夫婦でよく口喧嘩をされる方がおられた。それを見て、私が悲しく思うたびに、19節のように祈らせてもらった。こちらも、ほんの数年のうちに、仲良し夫婦の模範とまで言われるように、変わっていかれた。私たちの努力や、信仰の強さによって祈りが聞かれるのではなく、神さまの方が、ご自身の満ち満ちたすばらしさを、私たちクリスチャンに現したいと強く願っておられる。神は、地上のすべての支配権を私たち人間に与えておられるので、神が願いの中心としておられることを、私たちが、キリストの名によって、「そうしてください」とお願いするとき、神は、喜んで、ご自身の願いを私たちに叶えてくださる。