「恐れるな」 ルカ 五章一~十一節 ー日本基督教団マラナ・タ教会牧師ー 河北朝祷会より(2016.1.13 第186回)

わたしたちは大そう疲れている時があります。そんな時に、イエス様のお声を聞いても頭も体も動かないかもしれません。徹夜で働いたのに何もとれなかった漁師のペトロは、まさにそういう状態にありました。それでもお言葉ですからと、御命令に従い、驚きひれ伏す経験をします。そして、「恐れることはない」というイエス様の決定的な言葉に出会いました。

注目すべきことは、捕れないはずの魚が一杯捕れたことではありません。御言葉に従い神の御業に接したとき、ペトロが瞬時にひれ伏し全てを捨ててイエス様に従ったことです。

ペトロはつい先ほどまでイエス様が群衆に向かって語られるのをすぐ横で聞いていました。なるほどなあ、ふーんと感心して聞いていたかも知れません。あるいは他人事だとボーっと聞いていたかもしれません。群衆に語りかけておられる時は、どちらにしろ何ら問題はありませんでした。しかし今、主の言葉は矢が的に向かって飛ぶように、ペトロに真っすぐに向かってきたのです。

御言葉が「群衆に」ではなく「自分への言葉」として届く時、何が起こるでしょう。そうです、葛藤や抵抗が生じるのです。他ならぬ「わたしが」神に従うのかどうかをズバッと問われるからです。

イエス様はペトロに短く命じられました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。夜通し漁をしても一匹の魚もとれなかったのです。無駄ではないかと思えても、それでもペトロはその言葉に従います。そこで何が起こったでしょうか。「漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」のです。

これは、主の言葉に従えば奇跡が起こるという話でしょうか。ペトロが信仰者として正しい判断をしたという話でしょうか。いいえ、この物語はそのような話ではありません。もっと重要なことがペトロに起こったのです。これを見たペトロは、イエス様の足元にひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。

このことこそペトロの人生において起こった決定的に重大なことだったのです。そこでペトロは、恐らく彼が生涯忘れることがなかったであろう主の言葉を聞きます。「恐れることはない」です。ペトロは、同じ言葉を後に再び聞きます。嵐のガリラヤ湖で、イエス様が湖を歩いて近づいてこられた時です。「幽霊だ」と驚くペトロにおっしゃいました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。

この「わたしだ」は「エゴー・エイミー」ですが、聖書では神の名前になっている特別な言い方です。モーセに告げられた神の名「エフエー・アシェール・エフエー」というヘブライ語のギリシア語訳で、イエス様だけに使われる言い方なのです。ですから「わたしだ」より、「わたしはお前と共にいる」と訳すほうがいいと思います。

わたしどもにとって最も大切なことは、「恐れるな、わたしはお前と共にいる」という主の御言葉を聞くことです。たとえ悩み苦しみで希望を失いそうなときでも、主に従うことに思わず躊躇するときでも、このお声が聞こえてくれば大丈夫です。安心してついて行くことができるのです。