ゆるし、ゆるされ、恵みの年に  昌川 神父

人類が、豊かさを優先した代償としての地球上の異変にも拘らず、今年も主の降誕と、神の母マリアにお奉げする新しい一年を迎えられたことは、このまま人類が生き方の責任を取って滅びに向かえば良いのではなく、 真の幸せに向かうべく『ゆるしと祝福』への招きだと、『神の慈しみの特別聖年』を感謝せずにはいられません。

人類は、物質的にも知的にも豊かさが増したとき、神は要らないと考えるようになり、手当たりしだい『富』を追い求める人になりました。そして皮肉にもその豊かさの中で今『生きがい』を探している人がなんと多いことでしょうか。

人は幸せになる権利があると同時に、他人の幸せには義務を負っていることを忘れると、自分の幸せを獲得する道すがら、 友を傷つけて、恨まれ、果ては相互が被害者意識の逆切れという泥沼地獄に陥りかねません。

私は最近になって「××原病」という言葉を知りました。××が原因の病でストレスになっているという友から私に向けられた言葉でした。自分の生き方に、悪気はなくても他人のストレスになる生き方があるのだと、恥ずかしながらこの歳になって初めて気づかされた出来事でした。愛する友は、いじわるっぽくユーモアで訴えてくれて私は心に留めることが出来ましたが、 言葉を持たず、相手の『気づき』だけを必要としている人々にも同じ配慮が要ります。

神の母マリアに捧げるこの一年が『ゆるし、ゆるされて、恵みの年』となるよう、負っている咎、負わせた咎から解放されて、 愛された神の子としての再出発の年となるよう、フランシスコ教皇様の『いつくしみの特別聖年の大勅書』の言葉を心に留めたいものです。

『自分を傷つけた相手をゆるすことは、いつくしみの愛を最も明白に示す表現となり、キリスト者にとっては無視できない命令です。ゆるしとは、心の平安を得るために、わたしたちの弱い手に与えられた道具なのです。恨み、怒り、暴力、復讐を手放すことが幸せに生きるための必要条件です。』