こだわり  長崎 壮神父

もう十数年前のことであるが、ある有名ラーメン店を取材した番組を見た。小さな店内は開店と同時にすぐに客でいっぱいとなり、順番を待っている客が店の外に並べられている椅子に座っている。皆が無言でうつむいている姿はこれからおいしい物を食べるのを楽しみに待つ姿には見えない。小さな子どもや香水がきつい人の入店はお断り。さらに雑誌や新聞を読みながら食べているとラーメンの「道」を究めたとされる 『こだわり』の強い店主の非常に厳しい視線が客に注がれ、客は否が応でも食べることに集中させられる。

食いしん坊の自分は道を究めた名人の味を一度試してみたいと思う一方、 狭量とも思えるその名人の『こだわり』に複雑な思いを抱いたまま、ついぞその店を訪れることはなかった。

さて、枚方教会に赴任して、一年近くが過ぎ、四季折々の教会行事の流れもひと通り体験することができた。枚方教会では平日のミサを三人の司祭がローテーションを組んで捧げているので、 ひとりが週に二回づつ主司式を務めることになる。ともに祭壇上でミサを捧げていると、その作法に関しても三人がそれぞれ違った『くせ』があることがわかってくる。そしてその祭壇上の作法の『くせ』について話し合っていると、なかなか譲ることのできない『こだわり』があることがわかった。

自分のような新司祭には、主張できるようなこだわりがあるわけではないが、 ベテラン司祭のそういった作法についての考え方を聞くと、それぞれの司祭が、 個々の内的生活に基づいた信仰を持って日々のミサを捧げていることがわかり大いに啓発された。

その一方で、マニュアル主義に安住してキリストを伝える熱意の少なさを反省させられた。そして、共同でミサを捧げることを通じて、人の霊的生活、神様との対話の中に安易に踏み入ることはできない聖域があること、 そしてそれを大切にすることが相手の人格を尊重するということでもあると思った。

こだわりはその道を一所懸命究めた者だけが持つことができるものであり、その意味では尊いものだ。しかし、キリスト者である私たちは、自分の持つ『こだわり』を個人のうちにとどめておくべきか、 それとも家族、社会、自分の属する共同体におしつけていいものかどうかを識別する必要もある。

平和と一致を与えるキリストの目で見たときに自らのこだわりが、どうしても譲ることができないことなのかどうか、 人々の一致を強めるものになっているかどうかをこの四旬節の歩みの中で見つめていきたい。