私たちはイエスの弟子でありその派遣に忠実でありたい ー主任司祭ハイメ・シスネロスー 河北朝祷会より(2016.7.14 第191回)

今日の聖句はマルコ3・13~15です。山に登るイエス、山は神と出会える場所。イエスの祈る姿を現しています。イエスは御父と相談し、12人を使徒として選びました。聖書のほかの個所では72人の弟子が派遣されたとあります。ガリラヤからイエスに従った人々が多かったこと、そのなかに婦人たちもいたことは明きらかです。

私は12歳のころ小神学校に入りカトリック司祭を目指しました。毎日ミサに与り、旧約・新約聖書に触れ、特に福音を読んだときはイエス様の存在を強く感じ、イエスの弟子になる準備が進むという恵みを得ました。信仰のイメージを聖書から得ました。それはアブラハムの神に対する信頼と旅をするイメージであり、モーゼに学んだことは解放を目指す霊性、その霊性による多くの障害や囚われから自由になる過程、サムエルからは主の呼びかけを聴くこと、詩篇からは様々な祈りに触れる精神が欠かせないこと等です。

新約からはイエスの生涯と神の国の訪れのしるしを弟子たちが学んだように神の国の神秘を知り、それを人々に伝えていく人、それがイエスの弟子だということです。「弟子」とは、自分から進んで師の門をたたき、師と見解をともにする者のことです。知恵ある教師から学ぶ者、従う者、後継者ともいえます。

イエスの弟子とは、イエスの生き方を学び、イエスのなさったことを見て、福音を聴いて、その後おなじ使命に参与する者です。しかし大事なことは、弟子がイエスを選んだのではなく、イエスが弟子を選んだということです。ですから弟子は自分を捨てることが求められるのです。

私は、弟子たちが「信仰を増してください」と祈ったように、それを主イエスに願い求めます。そのためには、毎日のように舌と耳を育てる必要があります。「主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝毎に私の耳を呼び覚まし、弟子として聴き従うようにしてくださる。」(イザヤ50・4)

毎日、聖書に触れて養成されることは、受けた使命を果たすことに役立ちます。「わたしが行く時まで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」。(テモテ一4・13)「神は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちにくださったのです」。(テモテ二1・7)

信仰の正しい理解を求め続けることも大切です。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。この方はすべての人の贖いとしてご自身を捧げられました。これは定められた時になされた証しです」。(テモテ一2・4~6)

イエスの語りかけに、今日も耳を澄ます。耳を澄ますことによって、祈ることの値打ち、人々との連帯を実感します。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ・・・。二人または三人が私の名によって集まるところには私もその中にいるのである。」(マタイ18・20~21)「神の御ひとり子、主イエス・キリストを信じます」という宣言はイエスの弟子になる招きを感じさせてくれる言葉です。

イエスの弟子には派遣が伴っていることを忘れないで頂きたいのです。イエスの弟子であることに誇りを持ち、兄弟姉妹と力を合わせて、証しができますように。