私は現役時代マーケティング(市場政策・市場開拓)の仕事をしたことがあります。その頃に読んだ本の中に興味深い話がありました。イエスは歴史上最高の市場開拓者である、イエスはたった3年間の宣教でその教えが2千年も続き、多くの信者を獲得した。
その理由は、「発想の転換」と「たとえを用いた分かり易さ」で、マーケティングの基本はここにあると言うのです。イエスは「人々の聞く力に応じて、多くのたとえで話された」(マルコ4章33)のですから、たとえ話は分かり易くするためであることは疑いありません。
しかし、実際にはどうだったでしょうか。マタイ福音書20章に「『ぶどう園の労働者』のたとえ」と言うのがあります。ぶどう園の主人が、労働者を朝早く1デナリオンで雇い、9時にも、12時にも同じようにした。そして夕方の5時に雇った労働者にも同じ1デナリオンを支払った。そこで朝早く雇われた労働者が「暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをするとは!」と文句を言った。
ぶどう園の主人はこれに対して「みんな1デナリオンで契約をした。私はこの最後の者にも同じように支払ってやりたいのだ」と答えた、と言うのです。これはどう考えても不公平だというのが普通の見方でしょう。しかし私たち信者は、これが終末における天の国での神の恵みを表しているのものだと説明されれば納得できます。
三浦綾子は「新約聖書物語」の中で、1デナリオンは当時の労働者の一日の生活費で、朝早く雇われた人は明日の糧を早々に確保出来て心安らぐが、夕方まで仕事が無かった人の心労は如何ばかりか、だから皆平等に1デナリオンを支払ったこの主人の行いは、「神の憐み」を表しているのだと言っています。
この終末の話から、神の憐みを読み取っています。信仰の耳がなければ、たとえ話を理解するのは難しいようです。ところでイエスは、たとえ話を用いて話す理由について弟子たちに不可解なことを話されます。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解せず、こうして、立ちかえってゆるされることがない』ようになるためである。」(マルコ4章10~12)
何だかイエスは、たとえ話で人々が理解しないようにするのだと言っているように聞こえます。たとえで話すのは分かり易いためにというのであるなら、何故このようなことをおっしゃったのでしょうか。この不可解な言葉は、「種を蒔く人」のたとえについて話される前に出てきます。従って、これは、種まく人のたとえに関係があるに違いありません。
ある種は、道端に、石だらけの土の少ない土地に、茨の中などに落ちて実らなかったが、良い土に落ちた種は育って実を結び、百倍にもなった。話を聞いても理解しようとしない人が大勢いる…。イエスの言葉は結果論を述べていて、これは預言的な言葉です。イエスのたとえ話は、私たちが受ける「種」のようなものですが、実を結ぶか否かは人の受け方によって違います。イエスは預言者として、たとえをもって話す理由を述べられました。たとえ話を受け入れるには、先ずイエスへの信頼・信仰が必要なのだという、私たちへの厳しい教えでしょう。