求めよ、さらば与えられん マタイ7章7~12節  ー日本基督教団 マラナ・タ教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.5.11 第200回)

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この御言葉をそのまま受け入れようとして、苦しい状況で、祈りに祈り、願いに願い続けたけれども、必ずしも望んだような結果があたえられなかったということは、よくある経験です。

ところで、イエス様は何を求めよとおっしゃっているのでしょうか。「求めなさい、そうすれば与えられる」のところには、何を求めるのかという目的語がありません。それに続く言葉「まして、あなた方の天の父は、(○○を)求めるものによいものを下さるに違いない」も、何を求めるのかという目的語「○○」なしに訳されていますが、元のギリシア語の新約聖書には、はっきりと「彼を求めるものには」と何を求めるかが書かれています。

つまり、イエス様は「神を」求める人には、よきものが与えられるとおっしゃっています。「神に」求めるのではなく「神を」求めるのです。わたしたちが連想する願い事ではありません。イエス様の時代、人々は旧約聖書の詩篇や律法などは暗記しておりました。特に毎日唱える申命記六章の言葉、「聞け(シェマー)、イスラエルよ」で始まる「シェマー」はだれもが暗記しておりました。申命記四章にも「シェマー」と同じ表現があります。「あなたたちは、あなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう」。懸命に神を尋ね求めるならば、あなたは神に出会えるというのが律法の教えです。

わたしたちは旧約聖書の知識に乏しいこともあって、「神を」求めるを、「神に」求めると勘違いすることもありますが、「求めなさい、そうすれば与えられる」と聞いた人たちは、説明がなくても、これは神様のことをおっしゃっていると分かったはずです。それでは神を求めるとは一体どういうことでしょうか。神を求めるとは言うまでもなく礼拝して神を拝むことです。それ以外にはありえません。心の中で神を想うなどという精神化された修行のような行為ではありません。声を上げて賛美を歌い、信仰の言葉を唱え、祈り、献身の思いを言い表すことです。神を信じる群れの中で、皆さんと一緒に、教会で共に礼拝すること、これが神を求めることです。

そのとき神はわたしたちに「究極のよきもの」、神の息吹、聖霊をくださいます。聖霊によって、交わりが与えられ、イエス様の十字架と復活や、それによって今生かされていることを思い出させられます。そこに罪の赦しが生まれ、甦りの命が生まれるのです。

マラナ・タ、主よ、来てください、とわたしたちはずっと祈り続けています。この祈りは、二千年続いた教会のかけがえのない、もっとも大切な「神を」求める祈りです。神を求めましょう。するとわたしたちの祈りに答えて、今ここでお会いくださり、生きて働いてくださっているのです。そしてここから出ていきましょう。主の愛された人々のもとへ。主の平和がみなさんと共にありますように。