サムエル記上1章21~28節  ー森小路教会ー 河北朝祷会より (2017.7.13 第202回)

預言者サムエルはイスラエルの歴史において大きな役割を果たした神の人であります。 しかし、少年サムエルが祭司エリのもとで主に仕えていた時は、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれでありました(3・1)。なぜなら、聖なる神様を汚す人間の堕落した行為があったからでした。それにもかかわらず、神様はご自身の業を成すために、人を選び、私たち人間の世界を導いてくださったのです。そこには、一人の母の祈りがありました。ハンナという女の人はエルカナという男の妻でした。一夫多妻のその時代で、エルカナにはもう一人ペニナという妻がいました。そのペニナには息子たちと娘たちがいましたが、ハンナには子供がいませんでした。当時において子供がいないということは、今の時代よりももっと苦しいことでした。

子供がいるということは神様の祝福であり、その家を守り、受け継ぐための大事な力であったのです。もう一人の妻ペニナはハンナを敵とみて苦しめたので、ハンナはとてもつらい思いをしていたようです。ある日神殿でいけにえをささげ、家族がともに食事をしていた時、ハンナは一人神殿に入り、彼女は悩み嘆いて激しく泣きながら祈りました。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。
はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」

その涙の祈りはかなえられ、男の子が生まれました。踊るような喜びがハンナの祈りに表さています。幼子サムエルがいかに愛しく大事な存在であったのでしょう。しかし、ハンナは神さまに誓った通りに、乳離れをしたサムエルを祭司エリのもとにおいて、主に委ねます。人間的には寂しく切ない決断のように見えますが、ハンナは母としての肉親の情を克服して、神様に愛する息子を委ねることができました。それは、死んだもの当然であった自分の胎を開いて、子供を授けてくださった神様の奇跡の御手を信じることができたからでした。母の手を離れた子供への心配は、生きておられる神様への信頼によって消えました。子供への恋しさは神様への祈りに変わっていたと思います。めったに会えなくても、離れていても母は、神様にささげた息子のために祈り続けていたことでありましょう。

神様は真心をもってささげる母の祈りと讃美を聞き入れてくださるのです。神様はご自身が選んだ者に様々なことを通して祈るよう促してくださり、その祈る人の信仰と献身を通して、ご自身の御業を成し遂げてくださるのです。そのような神様の一方的な恵みによって、私たちは今も生かされているのです。