為政者のために丁寧に祈れ  -枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.10.12 第204回)

衆議院議員選挙が近づいているが、教会では、政治のことについて語るのは避けるべきだという風潮がある。その理由として「政教分離」の原則だから、と言われたりするが、政教分離は、政治が宗教に関わってはいけないということで、教会で政治のことを話題にしてはいけないということではない。聖書はこのことについて、どう言っているだろうか。

すべての人のための祈りテモテ第1の1章1節では、〈まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。〉とある。同じ教団のクリスチャンの中で、私が「あの人とは、本当に心を割って話せない」と思う人がいた。自分が正しいと思ったことを強く主張されるので、私も傷つく経験をした。しかし私が永年そう思ってきたことを、神様から、私の罪として示された。そこで、この御言葉に導かれて「願い、祈り、執り成し、感謝」と、その人のために、自分の罪のためにも、丁寧に祈った。その後で、その人と出会った時に、親しく話し合うことができ、互いのために心から祈り合うこともできた。

次の2節では、〈王たちやすべての高官のためにもささげなさい。〉とある。「政治を司る人たちのためにも、同じように、問題を丁寧に祈りなさい」と言われていることになる。自分が気に入らない政治家のことをけなすのではなく、丁寧に祈って、その人のために感謝までしなさい、と言われている。クリスチャンは「王である祭司」なぜクリスチャンが、政治家のためにもそんなに祈らなければならないのだろうか?ペトロ第1の2章9節には、〈あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。〉とある。ここで、〈王の系統を引く祭司〉は、原語では「王である祭司」となっている。つまり、神は、政治家にではなく、クリスチャンに、神の御心と恵みが地上で成るための、王としての支配権を与えておられ、同時にクリスチャンは祭司でもあるので、神に祈ることによって、その支配権を行使していくことになる。つまり、クリスチャンが祈ることによって、神が為政者に働かれて、神の恵みを地上にもたらすような政治をしていくことができることになる。だから、神は、クリスチャンに為政者のためにも、丁寧に祈れと命じておられる。

昨今の問題のために箴言14章34節では、〈正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。〉(新改訳)とある。為政者は、正義に基いて政治をしていかなければならない。そうでなければ、いい加減な、腐敗した、恥ずかしい国になってしまう。6月に、国会で、森友や加計の問題が議論されていたときに、教会の礼拝で、次の祈りを皆で祈った。「国政においても、正しいことが正しいと明らかになり、間違ったことが間違っていると明らかになり、正義を行わなければならないことが、人々の前に明らかに示されますように。」

私たちも、政治においても、おかしいと思うことを非難するだけでなく、神の恵みと御手がそこに表されていくように、丁寧に祈らなければならない。これが聖書の教えということになる。