朗読してもらった聖書の箇所には、イエス様とニコデモのストーリがえがかれていて、皆様に親しみのある出会いです。イエスが述べた言葉を改めて聞きます。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』(3:3)。『だれでも水と霊によって生まれなければ』と言い加えました。(3:5)。
イエスの招きに答えて洗礼を受けたことは私たちの共通の記憶ではないかと思います。さて、『十字架のイエス』のイメージをどのように抱いているでしょうか。『天から降って来た者、すなわち人の子の他には、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである』(3:13-15)。イスラエル人たちが荒れ野で毒蛇にかまれて、死なないように、青銅の蛇を見て助かりました。そのようにイエスが十字架に架けられ、イエスの下で救いを頂くしるしが私たちに与えられました。(15節)それが、信じて人の子によって、永遠の命を得るためである。
共観福音書には、イエスの自分の受難と死を3回ほど予告があります。しかし、ヨハネ福音書には受難の予告はありません。その代わりに、『上げられる』との言葉が3回に出てきます。
『そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたとき初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手に何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう』(8:28)。それに、ギリシア人が来て『イエスにお目にかかりたいのです』と願ってイエスに会って、話を聞きました。『はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』(12:24)。そして関連のある聖句、『“わたしが地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう”。イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。』(12:32-33)。
結局、ヨハネは荒れ野でのエピソードを用いて、十字架上のイエスを示し、その方を見て、命と救いを得るために信仰の目が必要だと説くのです。十字架のテーマの関連で、3点をあげて見ます。
1、『十字架』そのものを救いのしるしとして使用する。カトリック教会では十字架上のキリスト像を良く使います。
2、『祈りの初めと終わり』に取り入れます。十字架を切る祈りと呼んでいます。『尊い十字架のしるしによって、誘惑者からわたしたちをお守り下さい。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。』
3、『十字架の道行の祈り』の一部を紹介します。第十二留の結びの祈りです。『主イエス.キリスト、あなたは十字架上で御父の望みを全うされました。み心を行うことは、この世にお生まれになったときからのあなたのただ一つの願いでした。そして・・・。主よ、あなたの奉献に合わせてわたしたちも全生涯をささげます。』。