人がいちばん美しく見えるとき  長崎壮神父

枚方教会に赴任以来、毎年一月半ばになると短大で看護師の国家試験の合格を祈る《みことばの祭儀》を司式することが私の年中行事になっています。
毎年この式には看護士の国家試験を一週間後に控えた五十人ほどの学生が集まりますが、はじめは皆が不安の入り混じった深刻な表情をしています。

そんな彼女らを前にして司祭としてできることといえば「万全に体調を整えて力を発揮できますように・・・」との願いと、緊張をほぐして送り出してあげることくらいですから例年式の始まる前には多少のおこがましさも感じます。
ところが今年は刻々と式が進むなか、みことばを真剣に聞き、そして祈る学生たちの姿におこがましさといった感情も忘れるほどに心が捉えられました。

私が祈る学生の姿から気づかされたこととは、「神様に向かって祈り求めるときほど人が美しく見えるときはない」ということです。
祈るという行為は自分自身の限界を認める謙虚さと素直さがないとできないことですから、同じ人であっても祈るときが人がいちばん純粋に見えるのでしょう。
出席した学生の中にカトリック信者の学生がいたのかどうかわかりませんが、普段のキリスト教の授業や式典では、心の中で「私は無神論だから、神様の助けなんか要りませんよ。間にあってまーす」と思っていた学生ならいたかも知れません。

それが自分の人生の一大事を控えると我に返ったように素直な祈りの表情になるのですから不思議です。
カトリック要理の本などを開くと人間に関する説明の中に「人間とは宗教的存在である」という文言がありますが、これは人間の中に自分の力を超えた神様の存在を認め、探求し、祈りを必要とする心が本来的に潜んでいることを言っているのでしょう。

無神論を公言している人でも困難に鉢合わせしたり、八方塞がりになったときに「神様、もう自分の力ではどうすることもできません。助けてください」と祈る体験は一生のうちに必ずあるはずです。
ですから人が神様の助けを心から感じて自然と手を合わせるときこそ、人がいちばん人間らしくそして美しく見えるときなのだということには納得できます。

今回紹介した《みことばの祭儀》のような福音宣教の場を通して本来は伝える側である司祭の方があらたな気づきを得て感動することがよくあります。
そしてそういった感動のひとつひとつを心の糧としていくことなくして司祭職は続けられないのではないかとさえ思っています。

復活の喜びに与った今、枚方教会としても再スタートのときです。枚方教会が掲げている “ともに祈る教会”を目指してひとりひとりが互いに感動と気づきを与え合えるような教会家族となることを心から願います。

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