コミュニケーションと ユーモア(寄稿者 枚方教会信徒 M.S) 河北朝祷会より (2018.5.10 第210回)

人は歳を重ねると老いていくのは自然の成り行きですが、昨日まで出来ていたことが出来ないとなると、能力の低下、肉体的な衰えを認めざるを得ない状況になり、人格までが悪くなって行くようで嫌なものです。今、真にその世代に生きる私がどのように考え過ごせば良いか考えてみました。

私は約2年半前から、朝7時のミサに与っています。朝ミサは、月曜日から土曜日の週日にあり、「毎日のミサ、教会の祈り、そしてロザリオを一環」祈り、8時30分頃終わります。四旬節の期間は、ロザリオの祈りの代わりに「十字架の道行」をします。毎朝司祭を通してご聖体をいただき、神様と交わるコミュニケーションが出来る喜びに満たされています。

私には、健脚の持ち主で、好奇心旺盛、感性豊かで、イエス様を愛し、イスラエルに永住したいと夢見る、尊敬する先輩がいます。私は、ある事をキッカケに、人間不信に陥るという悲しい体験をしました。そんな時、先輩は私に人は個々であり考えが違うのは当然、それを理解して交わればその人を恨むことはない、笑い飛ばそうと励まし、慰めてくれました。

また、朝ミサは神父様が、「苦手とする人だからこそ、積極的に交わりなさい。人は、人と関わることにより、自分を客観的に見ることが出来、自分を知り、成熟した人間になっていく」と話されました。コミュニケーションは、言葉だけでなく、互いが自らの心を開けて思いを伝える手段であり、相手を戒めたり、励ましたり、助け合う呼び水的な救世主でもあります。だから、うわべの表層部分だけのコミュニケーションであってはならないのです。コミュニケーションは分ち合うことを意味し、「愛」であり、心を結ぶ架け橋だと考えます。

ユーモアは、他人を不快にさせたり下品な言葉で人を笑わせるジョークとは違い、機知に富みシャレで、人を傷つけない上品な面白みがあり、また、悲しみにうちひしがれた人々を優しく包み込む力と温かさを伴っています。

米田神父様が書かれた、「寅さんとイエス」の本の中に、他者の辛さを察知し得ない人間は、ユーモアの感覚を持ち得ないと、書かれています。肉体は年齢と共に衰えるが心は成長、感性は衰えることは無く、ユーモアは、説明するものではなく感じるもので、感じる人も、感じない人もいる、感性の問題だと言います。
教会には、少年のような衰えない感性をお持ちの神父様がいらっしゃいます。土曜レジオでユーモアを感じさせる神父様のお説教は、私たちの食物になっています。

常識という固定観念にとらわれず「柔軟な思考」が身につけば、ユーモアを超えたコミュニケーションを行うことが出来るとも、聞きました。言葉では簡単ですが、難関です。努力して行きたいと思っています。

余談ですが、私は「この木なんの木、気になる木」というコマーシャルに出てくる、名前を知らない木が好きです。あの木は両手を私たちに差し伸べ迎えてくださるイエス様、枝はイエス様のたとえ話に耳を傾けコミュニケーションをしている私たち、そのような姿を夢想するのは私だけでしょうか。