おかんどうしてる?  長崎壮神父

同じ国の中でも地方それぞれに特別な言葉があります。
関東で生まれ育ち、司祭叙階後にはじめて大阪で暮らし始めることになった私には、この地で会える古くからの友人はごく僅かで、普段の交友関係といえばもっぱら教会の中のお付き合いに限られます。
そうしたお付き合いの中で最近は大阪ことばを聞いてその響きや意味の豊かさを楽しむ余裕も出てきたようです。
そのひとつ、三十~四十代の男性信者さんと話をしているとしばしば新鮮に響く言葉があります。

「うちのおかんが…」という言葉です。
関東の言葉にはない、何かあたたかな響きをもついい言葉だと思います。

さて、復活節が終わり教会の暦も落ち着きを取り戻してきたこの時期に司祭として毎年気にかけなければならないことがあります。
それは復活祭に洗礼を受けた新受洗者の方たちが教会共同体に馴染んできているかどうかということです。
幼児洗礼の場合は別として、成人の新受洗者にとって信者生活のはじまりにおける顔見知りは入門講座でともに学んできた仲間、そして講座を担当していた司祭くらいしかいません。
それが未知の世界に入っていくわけですから期待とともに心細さも感じるのは当然なことです。ですから新受洗者にとって代父母の存在は大きな意味を持ちます。

代父母を選ぶに際して、家族の誰かが既に洗礼を受けているなら、その家族の一員が知り合いの信者さんの中からふさわしい人を選ぶこともできますが、そうでない場合は司祭が新受洗者と寄り添いながら歩んでくれそうな人を探してお願いすることになります。
私は自分が代父母を選んだ人の場合、それが親子ほど年齢が離れているならば、ときどき「おかんはどうしてる?、おとんは?」と訊くことがあります。そして、代父母になった信者さんの方にも「あなたの息子の○○さん、娘の○○さんはどうしていますか?」と訊ねることにしています。

私がこのように訊ねるのは、代父母をいただくというこの習慣が血縁を超えた兄弟性・姉妹性を大切にするカトリック教会の宝だからであり、その恵みを親子双方にときどき思い起こしてもらいたいからです。
代父母は代子とともに成長していければよいのですから、いわゆる立派な人である必要はありません。時には聖母がエルサレムの神殿で見出した少年イエスに「私が父の家にいるのを知らなかったのですか?」(ルカ一:四九)と、はっとさせられることばをかけられたのと同じく清めの体験をすることもあるでしょう。しかし、そういったことも信仰の旅路の上では微笑ましいことです。

新受洗者と代父母の間に互いを思いやる心、尊敬の心があること、そしてともに寄り添い歩むことができるように願っています。