司教叙階後の 枚方教会での初ミサ

7月16日(月)にカテドラルで前田万葉枢機卿から司教の叙階を受けられたアベイヤ補佐司教は、最初の主日のミサ(7月22日)に枚方教会を選ばれました。
久しぶりの説教を録音しましたので、その内容を掲載します。

《説 教》
今日の典礼をよく見ますと第1朗読と福音書は非常に対照的です。第1朗読はエレミア書の23章になっています。この23章の前の22章でエレミアは当時の王様が行っていた不正な行いに対して厳しく批判する場面が伝えられています。その年の王様とその前ですね、何人かの王が人々を罰したりして、その民の中で本当に色んな不正な状況にあったことに対して批判しているのです。そして23章ではまとめて牧者のイメージを使って同じことを語っています。この民の指導者たちは神様が民のためになさったことをよく知っているはずなんです。それを教えている人たちなんです。本当に神の愛と慈しみがあったからこそ民が今日存在しているんです。神の慈しみと愛があったからこそずっと呼ばれてきたことをよく知っているんです。そこなんです、知っているんです。にもかかわらず、彼らは神が示された道から離れて自分の欲望と自分のパワーを求めて人々を好きなように支配してそこで不幸を生み出していってるわけなんです。だから、私の羊を散らし滅ぼす牧者なんです。それに対して、神はそれを見ていられないで私自身が新しい牧者、ほんとに一人一人の、一匹一匹の羊のことを心にかけてふるまう牧者を送る。まさに、今日の福音書の中に出ているイエスである。

一つの慈しみと云う事が出ているのですが後でヨハネの10章にいきますと、ほんとに具体的にこの良い牧者はなんで良い牧者であるかということが分かるようになるわけです。イエス様が、自分の教え、あるいは神の国をみんなに知らせたいんです。そして弟子たちを遣わすんです。そして弟子たちは出会った人々にその福音を彼らの状況を見て彼らの力になって行くんです。それで彼らは癒されるし、ほんとに疎外されている人々は共同体に迎えられて改めて心の中で喜びを感じほんとうに、誰かがやっと私を人間としてみてくれたんだというような、そのような気持になるんですよね。これは良い知らせなんです。そしてその弟子たちはイエス様の所に帰ってきて報告するんです。まあ、嬉しかったでしょうね。何処かへ行って何かに関わって、少ないかもしれませんけれど何人かまた希望を持つようになったとすれば物凄く嬉しいんです。そして、イエス様が「じゃあ、あなたたちはよく働いたんだから、ちょっと人里離れたところで一服しよう」と言った時に、それは寝るためだけじゃあないんです。イエス様が人里離れたところへ連れて行く、何故かと言いますと彼ら自身が彼らを通して神様が行ったことを振り返りその中で神の恵みに気付くためなんですよ。そういう時が必要なんですね。でないと活動に振り回されて私たちは何をやっているか最終的に分からなくなってしまうわけです。

その時に人々は、イエスが居る、弟子たちが帰ってきたと、気付いて追いかけていくんです。イエス様がちゃんとプログラムがあったのにそれを置いといて、その人々の状況を心に留めて深く憐れみ教え始められた良い牧者です。それは一時的な感情ではないんです。深く憐れみと書いてあります。そしてどれだけ深く憐れんだかと言いますと、それは行動に移されたわけです。そこなんです。ほんとに深く憐れんだ時にほんとに人の事をイエスの目と心で見た時にそれが行動に移って行くはずなんです。それはそれこそ良い牧者のイメージじゃないかと思います。

そしてパウロは第2朗読の中で書いています。この良い牧者についていく人たち、この良い牧者の示された道を歩んで行く人たち、愛と慈しみを中心に歩んで行く人たちは全ての違いを乗り越えて一致と平和を味わう事が出来るのだと。イエスは二つの民、旧約の民と異邦人、ほんとに遠く離れて、イエスによってそれは一致させて、そこで一致と喜びを味わうことができる。私たちの家族、私たちの教会、私たちの社会の中で、分裂とか派閥があるときに、私たちはイエスの示されたこの良い牧者の示された道から離れているんだというはっきりした証拠があるんです。こういう福音書の朗読だったと思うんです。じゃ、これを読んで私たちは何を学べばいいのか、私は2つの事を学べばいいと思うんです。少なくとも私自身がこういう聖書を中心に黙想して2つのことを学べばいいんです。

一つは、イエスと慈しみを黙想し、いつも、そのために私たちは福音書の中に出ているいろんな場面を想像していてもいいですよ。イエスは何か病人に出会って癒されたときとか、いつも裁きの目で見られている人に声をかけて一緒に来いと言われたときとか、いろんな場面があるわけです。その場面を見ながらイエスの慈しみを深く味わう。自分も慈しまれているんだということなんです。それは他人の話だけじゃないんです。私たちのほんとの生活を見つめて振り返る、この人里離れたところの話ですよ、それを振り返ってみると、そこで慈しまれているんだということが、私たちはそれに気付くことができると思うんです。そして感謝が生まれてくるんです。そして感謝が他人の心を豊かにします。

そしてもう一つは、今度は私たちもイエス様と同じように愛と慈しみを中心に置いて、人生を送っていけるように、毎日の生活を送っていけるように。時々離れてしまい、振り回されるのです、私たちの欲望とかエゴとかに振り回されてしまいます。だからこそ、祈り続けていかなければならないと思います。

この二つの事を学べばいいのじゃないかなと思います。良い牧者の話しですと、今度司教になった私にも非常に戒められているというような感じがします。どういうような牧者になるか、エレミヤが訴えていた牧者のようになるか、イエスの示されたような牧者になるか、みなさんは私たちも良い牧者になることを祈りながら、このミサに参加して下さればありがたいと思います。

ミサの後、アベイヤ司教のお祝い会を集会の家で行いました。
久しぶりに司教と親しくお話が出来、また一緒に「アーメンハレルヤ」をお互い若かった頃の気分で、楽しく歌いました

ミサの後で、全員で記念写真を撮りました。

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