「死者の月」の黙想について  主任司祭 ハイメ・シスネロス

「死者の日」は11月2日ですが、今月中に死者のために祈ることは、教会の伝統として最も古くからのキリスト教的な習慣に基づいています。人は死後においても人生の旅を共に過ごしてきた人々との絆が切れてしまうのではありません。
前日の1日は、諸聖人の祭日です。聖人たちは神の親しみに招かれて、もう既にその賜物を豊かに受けて新しい姿になりましたので、私たちはその聖人たちのためにお祝いをします。そして次の日に教会は、清めの完成を待ち望んでいる死者のために、一日も早く天の扉が開かれるようにと祈りの支えを送ります。
この記念日に因んで、司祭たちに与えられている特別の許可があり、それは一日にミサを3回ささげることが出来ることです。同じく信徒は、部分免償を受け死者のために適応する恵みが授けられるのです。

さて、「信仰者と死」について考えてみましょう。

まずイエスの死に触れますと、キリストは十字架の死によって全人類の購い主となり、彼の死においてすべての人が死んだとあります。次の聖句にはその光が見えます。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のため死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(Ⅱ コリント5章14~15)。

体験的に出来ることは何かといえば、死を受け入れる準備を毎日することです。そのためにまず、「人の四終:死・審判・地獄・天国」について知ることが助けとなり、罪を犯さないようにと努める生き方を選びます。「死」について言えることは、人間は生まれることも死ぬことも選ぶことが出来ず、死にたくない願望があっても、いつかその時がやって来るということです。最近聞いた話を思い出しました。80歳代に入ったある司祭について、「どんな人ですか」と尋ねられたところ、仲間の神父の返事は、「死にたくない神父ですよ」。

「審判」に関して言えば、その時いかに「愛した者」であるかどうかが問われるので、生きているうちに自我の自分を死んで、他人を大事にする生き方へと正したいのです。「地獄」か「天国」のどちらかを選びなさいと、今から勧められている気がします。審判の時に人の望んでいた内容が明らかにされるでしょう。
今月、このようなことを黙想したいと思います。