2年前の2月12日、死を迎えようとしている妻の枕元で私はテゼの歌を歌い続けていました。
「イエスよ、御国においでになるときに、イエスよ、私を思い出してください」。
十字架上のイエスの両側に同じように十字架に付けられた犯罪人の一人が、「お前はメシアだろう。自分と我々を助けてみろ」とイエスを罵ったのに対して、もう一人が「お前は神を恐れないのか、我々は自分のやったことの報いを受けているが、この方は何も悪いことをしていない。」と言った後にこの言葉を続けます。
妻の枕元でこの歌を歌いながら御国のことを思い巡らしていました。
御国とは神の国で、イエスはここで神の右の座に着かれます。
十字架上の犯罪人はイエスに対して「御国においでになるときに」と言います。
イエスが神の国の主と察して言っています。
また、「お前は神を恐れないのか」とも言います。
これを見ても、この人が神を信じていたことが推測されるのです。
マタイ福音書は、この人を「盗賊」としています。
しかしただの盗賊なら恐らく石打刑だったでしょう。
十字架の極刑を受けたのは、ローマに対する政治犯だったか、豊かなローマ人から盗みを働き貧しい人に施しをする義賊だったからかも知れません。
盗賊という名を被せられていたとしても、神を信じる信仰者であったように思われます。
この犯罪者は十字架上で劇的に回心したのではなくて、常々イエスの言葉や行いに深い関心を持っていたのです。
だからイエスを、「この方は何も悪いことをしていない」と言うことが出来ました。
そして「イエスよ、御国においでになるときに、私を思い出してください」という言葉になったのではないでしょうか。
もしこの盗賊が悪人そのものであるならば、「わたしを思い出してください」と言えなかったでしょう。
罪びとである私たちは、アダムのように神を見て隠れたくなります。
―私を思い出さないでください。そしてそっと楽園の片隅に置いてください―。
日頃からイエスの教えに心を動かされ回心の想いを抱いていたからこそ「わたしを思い出してください」と言えたのです。
自分が死を迎える時に、果たして素直に「私を思い出してください」とイエス様に祈れるでしょうか。
主の恵みに与って心から祈れるようになりたい…。
これが私に残された短い人生のいちばんの課題だと思っています。
朝禱会へのお誘い
朝禱会とは、カトリックとプロテスタントなどの諸教派が一つになって共に祈り交わる教会一致運動の具体的な実践です。
教会一致については第2バチカン公会議の重要テーマとして取り上げられ、「エキュメニズムに関する教令」が発布されています。
枚方教会ではマルセリーノ神父が設立に関わられ、大阪河北朝禱会として1999年(平成11年)4月8日に第1回の朝禱会が持たれました。
以後21年に亘って続けられ今月で230回になります。参加者が減ってきています。
どうぞ以前参加されていた方、新しい方どなたでも参加してください。
毎月(8月を除く)第2木曜日の午前7時から約1時間行っています。お待ちしています。
なお、今年10月17日(土)枚方教会で朝禱会近畿ブロック大会が行われる予定です