「枚」の字を持つキリシタン大名
ジョアン 津軽信枚(つがるのぶひら)

「枚方」を正確にヒラカタと呼んでくれる人は、大阪を離れると滅多におられない。大抵はマイカタかマキカタである。

しかし、この字をヒラと読ませるれっきとした大名がいたのである。

桜のシーズンになるといつも名の挙がる青森県の弘前城、その城を創建したのが津軽藩主の津軽信枚である。

信枚は11歳のときに洗礼を受けたキリシタン大名であった。

「枚」をヒラと読むのは、昔は今よりもっとポピュラーだったのかも知れない。キリシタン時代を偲びながら信枚の事績を辿ってみよう。

1590年に豊臣秀吉によって津軽に封ぜられた津軽為信(信枚の父)が大坂を訪れた時、イルマン・ヴィンセンテからキリスト教の話を聞いた。

その時すでに秀吉によってキリスト教は禁じられていたが、それでも京都や大坂ではオルガンティノ神父はじめ数人のイルマンたちが活発な宣教を行っていて、武家の間でも信者は増えつつあったのである。

為信は教理を聞いて受洗の決心を固めていたが、急いで津軽に帰らなければならなかったため、自分の決心のしるしとして、その時11歳であった三男の信枚を大坂に残し、キリスト教の勉強をするようにと命じた。

少年信枚は熱心に勉強して教理に精通するようになり、1596年に洗礼を受け、ジョアンと呼ばれた。

長男の信建も大坂にいて教理の勉強を始めていたが、二十六聖人の殉教やそれに続く迫害によって、その勉強は中断されることになった。

津軽に戻っていた信建は、1607年に大坂の教会を訪れ洗礼を受けた。

しかしそれは病弱で死を覚悟しての受洗だった。

津軽に帰るに当たって、2年前に建てられた京都の教会を見に行き、同様のものを津軽に建てようとした。

しかし津軽に帰って間もなく33歳で病没する。

そして父為信も翌年に亡くなった。

次男の信堅は幼少の頃に亡くなっていて、キリシタンの信枚が跡を継ぐことになった。

しかし信枚は、徳川家康の養女である満天姫と結婚しており、また信建の息子との間に藩主争いがあったとき幕府の強い支援を受けたこともあって、完全に家康の影響下にあった。

徳川将軍がキリシタン迫害を始めた時、信枚の心は大いに揺れ動いたが、遂に棄教し迫害者へと変身した。

1614年に家康がキリシタン禁教令を発した時、金沢で高山右近と共にいた信者たちが捕らえられ津軽に流された。

彼らは厳しい生活と重労働を強いられたが、信者として立派な証しを残している。

この時、「ペトロ岐部と一八七殉教者」の一人として列福されたディエゴ結城了雪神父が、津軽まで行き彼らを励まし慰めた。

潜伏宣教師であったディエゴがこのような行動を取ることが出来たのは、信枚の密やかな配慮によるものであったと考えられる。

棄教した信枚ではあったが、その心にはキリストへの信仰が残っていたのではないだろうか。

津軽でのキリシタン殺害は合わせて22人と少なく、それはすべて幕府の命令によるものであったと言う。 

*この項は、結城了悟著「キリシタンになった大名」、五野井隆史監修「キリシタン大名」を参考にさせて頂きました。