こころの生まれ変わり
カタリナ K・T

   

私の今までの人生を振り返ると『反抗』という文字が一番に出てきます。

親への反抗、社会への反抗、教会への反抗、神への反抗。

幼児洗礼の私は、反抗心を心に持ちながら、高校生まではイヤイヤ教会に通っていました。

教会へ行くとなぜか偽善を感じ、苦痛な場所でしかなく、神様のことを理解することもありませんでした。

それ以来私は教会からも神様からも離れ、闇の世界を数十年、さまよい生きてきました。

何か問題が起きても全て自分の力で動き解決してきました。

でもある日、自分では解決できない大きな出来事が起こり、悩み、苦しみました。

絶望感に押しつぶされそうになる日々、生きているのもイヤになる日々。そんな時に私の心に浮かんできたのが神様の存在でした。神様に頼りたい・・・。

何十年も祈ることのなかった私が、神様を求めて祈るようになり、神様の言葉を求めて聖書をまた読み始めるようになりました。

以前は聖書を読んでも意味がさっぱり分からず、何も心に残らない、ましてや眠くなって最後まで読めない私でしたが、今は少しずつ理解が深まり、神様の言葉を心に留めながら読んでいけるようになりました。

このような中で、ひとりで生きていけると高慢だった私が「自分の弱さを知り、すべてを神に委ね、神様と共に生きたい」という心の変化が起こりました。

心の清い人しか行っちゃダメだと思っていた教会も、罪人だから神様を求め、離れないように教会に行くのだと自ら悟りました。

父の死をきっかけに、こんなにも早く帰ってくるつもりではなかった枚方、そして枚方教会に戻ってきたことを心から神様に感謝しています。

元気のなかった私に「元気になるために教会に来てください」とだけそっと言ってくださった長崎神父様。

心優しく温かく迎えてくださり、分かち合いによって幼い私の信仰の手助けをしてくださる神父様方、枚方教会のみなさんにとても感謝しています。

もし、幼児洗礼ではなく神の存在を知らなかったら、反抗心の強い私は大人になっても神様を知ろう、求めようとはしなかったと思います。

今は幼児洗礼のありがたみをひしひしと感じ、日々の疲れがあっても、毎週日曜日のミサにあずかると必ず元気になる私がいます。

住人不在の私の部屋に父が貼ったもの(シラ書 13章)



(余談)

現在、私は訪問介護ヘルパーの仕事をしています。

いろいろな人生を歩んで来られた高齢者の方々と接することは私の喜びであり、なによりも人生勉強になっています。

しかし、体が不自由になり寝たきりの方や身寄りがなく孤独に暮らしている方から「もう死にたい」と言われることがあり、返す言葉が見つかりません。

何と声をかければいいのだろうと祈り考える日々です。