3年前の2月15日、脳性麻痺に起因する頚髄損傷で倒れ、救急搬送されて半年あまり入院していた。
無理な手術を回避し、車椅子に乗れるようになること、iPadをタッチペンで入力できるようになることを理学・作業療法の目標にしたリハビリを受けて退院し、以来在宅生活を送っている。
入院中に外でコロナ禍が広がり、どこの病院・施設でも面会が制限された。
入院したおかげでコロナ禍から守られていたとも思うが、手が動かなくなり、iPadの入力もままならなくなったうえに、マスクの装着が常識となり、聴覚障害がある私には読唇が難しくなったため、外部とのコミュニケーションが途絶してしまった。
これらのことが精神的にもっとも辛いことだった。
コロナ禍はいのちのみならず、人間の絆をも断ち切ってしまうことを実感している。
今日、24時間介護体制での在宅生活を支えてくれるのは週延べ25名ほどのヘルパーである。
食事、洗濯、通院、そして紙オムツの交換、外出時の付き添い。(入浴は週2回、デイサービスセンターに通っている)。
幸いなことに、彼らのうち何人かはキリスト者であり、その中にカトリックのKさんがいる。
退院して2週間ほどたった土曜日の夕方のこと、私のiPadが突然鳴った。大阪教区の手話グループからのオンラインによる手話ミサの誘いだった。
苦しみのなかでの救いであり、闇のなかの光だった。
涙して感謝した。
それ以降、Kさんとともにこのオンラインミサに与るのは、私の救いと至福のひとときの一つとなっている。
それならば、と気づいたのだが、各小教区で日常的に行われているミサが、ネット上の会議システムで配信されるようになってもいいのではないか。
もちろん、キリストの食卓に与り、秘蹟を受けるには、教会に足を運ぶことが基本である。
しかし、私のように頻繁にはミサに与ることができない者にとっては、オンラインミサは信仰生活を送っていくうえで、格好の手段である。
私たち障害者のみならず、高齢者にとっても。
そのうえで、後日、地区連絡員等が聖体を持参するようになればよいと思う。
ちなみに私の母は、高齢者施設から外出できない。
コロナ禍が収まっても、どこでもこの方針は続くだろう。
クラスター感染で死者を出してしまっては、施設として責任がとれないからである。
人間は神から与えられた英知により、コロナ禍を乗り切る手段として、ネットの活用を進めた。
福音宣教や信仰生活も新しい時代に即していっていいと思う。
遠出が困難になった私にとって、来客を迎え、もてなすのはもう一つの至福のひとときである。
数回の友人の来訪とともに、神戸から友人の司祭が見舞いに、そして東京からマリア会の司祭が私のやりかけていた翻訳の引き継ぎに、ともに聖体を持って来てくださったことは感謝に堪えないできごとだった。
入院中に、救われたことを神に感謝し、コロナ禍の感染拡大を見つめながら思い至ったことは、人間も生物であり、病いから癒されたいという希求を持っているということである。
コロナ禍拡大のさなかで、キリスト教世界ではメシアニズム(救世主待望)の祈りが鳴り響いているように感じていた。
「主よ、癒しに来てください」――それは私自身の祈りでもあった。
今日、フェイスブックで日々の思いをツイートし、友人たちとメールでやり取りができている。
そのなかで、主のみことばを伝えていくことが、神に召されるまでの私の仕事かな、と思っている。