表題のテーマで原稿依頼を受けたものの、締切日を迎えて思考がストップしてしまいました。
以前、「河内のクリスマス」という題で大阪刑務所の受刑者向けに書いた文章をそのまま再掲させていただきます。
わたしの実家は河内平野のど真ん中で養豚業とアヒル屋を営んでいた。
大雨になると家も豚舎も水に浸かるような環境や、粗野な河内弁を話す人々の中にあって、わたしの母とその子供たちだけがクリスチャンであることにずいぶんと違和感を持って育ってきた。
クリスマスというのはテレビドラマに出てくるようなもっと上品でハイカラな人々が祝うものだというイメージがあった。
「豚やアヒル(合鴨)がそばにいたり、住む家がすぐ水に浸かったり、河内弁が飛び交うようなところにはキリスト教は向かないのだ。河内にはクリスマスは似合わない!」とわたしは思い込んでいた。
ところが、十数年前にある牧師さんの講演を聴いて、河内地方がキリシタンの聖地であることを知りびっくり仰天した。
フランシスコ・ザビエルが来日してまだ十数年しかたっていない1563年に生駒山地の一角にある河内の飯盛城で三好長慶(みよしながよし)配下の武士73名が集団洗礼を受けたというのだ。
そして、最盛期に河内には6000人ものキリスト教信者(キリシタン)がいたことがローマに伝えられているのだ。
今、大和川は堺市と大阪市の境界付近で大阪湾に注ぎ込んでいるが、江戸時代初めに付け替えられるまでは河内を横切り、大阪市内の天満橋あたりで淀川に合流していた。
わたしの生家や豚舎が水に浸かりやすかったのもそのあたりが昔は大和川の支流の川床だったからのようだ。
飯盛山のふもとには大和川が注ぐ深野池(ふこのいけ)という大きな池があって、その中にある三箇(さんが)という島には先の73名の改宗者の一人三箇サンチョという殿様の城と教会があった。
この人の本名は頼照(よりてる)だったらしいが、洗礼名のサンチョの名でヨーロッパには知られている。
キリスト教で一番大切なお祝いである復活祭やクリスマスになると三箇サンチョは礼拝後に深野池にたくさんの船を浮かべて、伴天連(バテレン=神父)やたくさんのキリシタンや領民に御馳走をふるまったという。
河内キリシタンの繁栄はわずか20年しか続かなかったが、その子弟の中からパウロ三木、三箇アントニオのような後にカトリック教会から聖人や福者にあげられた人々が育った。
また、禁教令で追われたバテレンたちとともに九州に下り、そこで布教をした河内の人々がいることも最近の研究によって明らかになってきた。
河内はクリスマスから縁遠い所なのではなく、ザビエルが最初に宣教した平戸には少しだけ遅れるが、長崎市内よりはもっと以前からクリスマスが祝われた由緒あるキリシタンの聖地だったのだ。
2000年前にイエスは神の子であるにもかかわらず貧しい家畜小屋の中で生まれた。
母マリアと養父ヨゼフの他にイエスを拝みに来たのは、当時の人々から軽蔑されていた羊飼いたちと、救いから除外されていた異教徒である占星術師だけであったことを聖書は伝えている。
「自分にはクリスマスなんて縁遠い」「自分は神から遠く離れている」と思い込んでいる人々の心の中にこそ宿りたい、と今もイエス・キリストは思っておられるに違いない。