一月一日の説教から
主任司祭 竹延真治

巻頭言に書くことが思いつかないうちに本日原稿締め切り日を迎えてしまった。

ふと、先日、ホームレスらしき人が道路わきの自動販売機の釣銭口に手を入れていたことを思い出す。

そうだ、返却口に置き忘れられたコインのように、パソコンを探せば何か未発表の原稿が見つかるかもしれない、と期待して「原稿」という名前のフォルダーを開いた。

ところが、世の中はそんなに甘くはない。未発表の原稿などは一切発見できなかったのだ。 

それもそのはず、締切日に追われて依頼された原稿を送ることはあっても、「何か無性に心に浮かぶことを文章にしてみたい!」などと思ったことは一度もないのだから、余分の原稿がパソコンに残っているはずがない。

その代わりに『グァダルペ』に説教の要約欄があったころ、わたしがある年の一月一日に行った説教が残っていた。編集委員がどなただったか忘れたがよく短い文章でまとめてくれたものだと思う。

以下《 》に引用する。

《一月一日神の母聖マリア  竹延神父

神を受け入れよう

降誕節は、主の洗礼の祝日まで続き、単にイエスの誕生を祝うだけでなく、神の子イエスが人々の前にデビューしたことを祝う期間でもある。

一月一日は特に聖霊によって身ごもった神の子イエスとその母マリアの出会いに焦点が当てられる。

女性は生涯における体の変化やこどもを産み、育てることを通して異物(自分とは異なる存在)との出会い方を深く学んでいく。

女性にすぐれた霊性を持つ人が多いのは、この他者を受け入れる能力が神様を受け入れる際にも役立つからだと思う。

神の子を宿し育てた母マリアに倣うとき、私たちは、神を受け入れること、自分と考えの違う人、さらには異なる民族や宗教の人さえも受け入れること、そしてついには世界平和を築き上げる術をも学んでいく。》

我ながら「なかなかいいことを言っているぞ!」と一瞬悦に入ったが、「まてよ、自分の説教が一番実行できていないのはこのわたしではないか!」と優越感はジェットコースターのように急降下した。

皆さま本年もよろしく!