新聞の家庭欄に、81歳の元家庭科の教師が、急な事情で辞められた先生に代わって短期間だけ教壇に戻った話を投稿しておられた。
彼女は数か月の間、高校生たちと充実した日々を過ごし、自らのその体験を、神さまからのプレゼントかもしれない、と述べておられた。
彼女は、「家庭科はより良い生き方を考える教科だ」と定義づける。
そうだ!当たっている!とわたしは我が意を得た気分になった。
今、わたしは枚方教会の司祭館で4名のメンバーの昼食と夕食作りを引き受けている。
食事を作る時は味、各自の好み、栄養バランス、手間、費用などを吟味している。
食事作りを通して、わたしは、より良い生き方を考えているのだと思うからだ。
ある信徒が駅前に停車しているバスの中からわたしを見つけたのだそうだ。
彼女は「神父様が買い物袋を提げて歩いておられる姿はとてもいきいきとしておられました」と報告してくれた。
言い換えれば、司祭職をやっている時のわたしは全然いきいきとしていない、ということだろう。
家業の養豚業を継ごうと豚の世話をしていた青年時代のわたしは、仕事に達成感があった。
司祭になってからはこの達成感があまり感じられない。
だが、食事作りの各工程、買い物に行き、食材を切り刻み、中華鍋をゆすり、皿に盛りつけて、なおかつ食事時間に間に合った時は、妙に達成感と充実感がある。
食事作りは他にもわたしの司祭職に好影響を与えてくれるように思う。
わたしの場合、説教のネタは、ほとんどが食事作りの合間に浮かんでくる。
机に向かって参考書片手に思案を重ねても頭がぐるぐる回るだけで何もまとまらない。
食事作りでは、そのままでおいしい食材はそのままの形で食卓に出すのがいい。
聖書も同じで、わかりやすいイエスのたとえ話は何も解説の必要が無い。
それとは反対に、生では食べられなかったり、くせのある食材は、香辛料を加えたり、煮たり焼いたりして加工度を高めた方がいい。
聖書の難解な部分も、同じように、加工度を高め、掘り下げてわかりやすい言葉で解説する必要がある。
食事作りのセンスは、聖書解釈にも生かされる。
食事作りだけでも、すごいことなのに、掃除、洗濯、裁縫、そして子育てや夫に対する励まし、近所づきあいなど、すべてをこなす主婦業はどんなに偉大な仕事だろうかと、わたしは思う。
司祭職を充実させるためにも、今回枚方教会に着任してから始めた『主夫』業をさらに深めていきたい。

