待降節に入った12月1日に恒例の待降節黙想会が行われました。
今年は、行事の都合もあって、3名の方に分かち合いをして頂きました。
ここ数年間は、1名は春に受洗した方にキリスト教との出会いを中心にお話をして頂き、そして他の信徒の方には、それぞれの生活や体験などの中から共に分かち合いたい話題をお話して頂いています。
I・Kさん
私とキリスト教との出会いは、父が終戦後、街頭伝道を行っていた救世軍牧師による「放蕩息子」の説教に感銘を受けキリスト教に救いを求めたのがきっかけです。
ですから私は物心ついた時から日曜学校に行き、自然にキリスト教に出会いました。
救世軍と言えば、歳末に行われる「社会鍋」が有名ですが、そのルーツは、アメリカのサンフランシスコにあります。
1893年の大恐慌の翌年、港町には多くの失業した船員で溢れていました。
そして、その家族は非常に苦しい生活を送っていました。
そのような失業者に温かいスープを提供しようとした一人の救世軍士官の募金活動が始まりです。
社会鍋は、名乗ることも、領収書を求めることもなく、鍋の中にお金を投じる人々の無償の善意、そして、無償の奉仕による、主イエスの教えを体現した「真の助け合い」運動なのです。
T・Tさん
私は中国満州のハルピンで生まれ、2歳の時ある修道院で家族4人で洗礼を受けたと聞いております。
今思えばそれが私の人生にとってすごく大きなお恵みでした。
4歳で母が亡くなりましたので、父は熊本市内にあるマリアの宣教者聖フランシスコ女子修道院に私を預け、私はそこで大きくなりました。
60~70名の若いシスター方がおられ、大きな教会を中心に病院、老人ホームから畑仕事、家畜の世話等、朝から夜まで働かれている姿を見ていました。
私は規則正しい生活で毎日のミサに与り、学校に通い、要理その他、沢山の事を教わりました。
23才で結婚して男の子2人を授かり、この時ばかりは嬉しくて何度も神様に感謝。
でも立派に育てられるか不安を抱えながらの第2の人生が始まり、子供達が少し大きくなると働きに出て30年。
この間は教会を離れていた時で、子供達を教会に連れてこなかった事、神様の事を教えてこなかった事、母親失格ですね。
今は、それぞれ大きくなっていますので、よい機会を得て神様のことを知る様になり、教会にも来てくれるようになれば嬉しいです。
私も長い間過ごしてきて感じる事は、どんな時にも信仰の喜びがあるというのは素晴らしいという事です。
T・Kさん
啓光学園から来られたマリア様の像の事で話をします。
啓光学園は経営体が変わり、校門前で毎朝、東を向いて生徒を迎えていたマリア様は役目を終え、引受先を模索されていました。
いち早くその事を聞かれた信者から評議会に相談がありました。
当時司祭館前の垣根の崩れ、教会表札の改名、白壁の汚れなど、修復する費用の捻出に苦慮しており、唯でさえ財政困難な時期に移設費用は出せません。
古い財務記録の中から、マリア様移設時の教会有志の献金記録を見つけました。
驚いた事に移設されてから丁度10年になります。
202家族からの献金が127万円、皆様の献金で難題が解決したのです。
設置場所も何処にするかなど活発な意見が出ました。
最終的に現在の階段踊り場に西向きと決まりました。
西は像の生まれ故郷スペイン・マドリッドの方向なのです。