物心ついた頃から、突然、世界から完全に自分が切り離され「私は誰なのか、この世界は一体何か」という迷子の様な感覚に度々陥っていた私が、これを哲学的に被投性と呼ぶと知ったのは随分後の事です。
名前すら持たないこの内奥からの問いかけに対して、答えを見出せないまま家族や学校の一員として存在する、あくまで仮象の「私」に戻るしかないということに次第に気づく瞬間、それはとてつもなく重たく感じ「この私を生きなければいけない」という逃れられない現実に呆然としながらも、自己一致を揺るがす一種の不安からは解放されるのでした。
大学進学で故郷を離れ、大阪へ。
恩師の導きによってシモーヌ・ヴェイユのキリスト教思想を通して贖罪の概念に惹かれ、留学中はユダヤ人哲学者レヴィナスの思想に導かれて、キリスト教との対話にも開かれていたユダヤ教の恩師との出会いもありました。
二人のユダヤ人哲学者における私の関心は、不幸を受け入れる過程での魂の完全な受動性の中でのケノーシスの型取りとして自己の魂の変容でした。
しかし、当時の私はまだ摂理としての父である神の存在を本当には知りませんでした。私自身の根本的な問題として、そうしたことを誰かと分かち合いたいという気持ちが皆無であり、結果的には学問の道からも、真理の道からも離れることになりました。
時を経て二人の子どもを授かり、子ども達との関わりの中で二度の回心の機会に与りました。
ある日突然「パンドラの箱」が開き、幼い頃から無意識に閉じ込めてきた様々な複雑な思い、受け入れ難かった事が波の様に次々と押し寄せると同時に自分の魂を救わなくてはならないという内奥からの使命の様な欲求、そしてそれを分かち合いたいという強い欲求が芽生えました。
未消化の感情を一つ一つ、自分が当時どう感じていたかを寄り添いながら確認し、またそれらを味わい尽くしました。
一つ一つを自分の内で受け取りなおすというこの作業はまるで暗闇の中、水脈を辿る様で二か月半近くかかりましたが、放棄してしまった「私」というジグソーパズルをはめていくような作業でもあり、自分を取り戻していく喜びがありました。
受け取り直しが落ち着くと、全ての人生の様々な点が一つの線で繋がっており、そこに大いなる力による導きが働いていることに気づきました。
正に「私とは何か」という問いに対して、神御自身が私の人生において父母の選びから現在に至るまで関わり続けておられ、神の御手の中にその最初から私はあったと知り、遂に答えが照らしの中で浮き上がり畏れを感じました。
それから程なくして、カトリックの先輩からイエズス会系の聖書分かち合い(CLC)に誘われ、十年振りに聖書を再び読み始めましたが、当初、洗礼の事は全く頭にありませんでした。
二度目の回心も子供との関わりの中から生じたものでしたが、長年抱え続けてきた罪を洗い流す様なものとなり、内で働く純粋さを求めるエネルギーは感じたことが無い程に大きく、自力では絶対には及ばない類の働きであると感じ、導いておられる神に感謝しました。
そして改めて聖書を読むと、聖書こそが魂のホームであり、魂の求めているものがここにあると確信した時、初めて洗礼について考えました。
自分の立場は柵の外に留まる事ではないかと思った時もありましたが、主は優しく招いて下さり、また二十年前インドのマザーハウスを訪れた際にお話をしたシスターの「教会の扉はいつでもあなたに開かれています」という言葉に背中を押されました。
全ての導きによるご縁、又受け止めてくれる家族に心から感謝します。