子育てには夜泣きはつきものです。両親は、夜中に火が付いたように泣き出した子どものオムツを替え、ミルクを与え「大丈夫、心配ない」と語りかけます。
するとさっきまで泣いていた子どもが何事もなかったように眠りにつく。
それにしても「一体何が大丈夫で心配なのだろうか」。
まずは部屋の中に恐ろしい存在が潜んでいないという安心感です。
自分を攻撃するものが部屋の中にいては安心して眠りにつくことはできません。
しかし知らず知らずのうちに両親は、もっと大きな事を子どもに約束しています。
それは「世界は大丈夫、人生は心配ない」という大きな約束です。
やがて子どもは大きくなって大人の限界を知ることになるが、その時にはもっと大いなる存在への包括的信頼を持つことになります。
この話は私が大学に通っている時に教育哲学を専門とされている恩師が教えて下さったものです。
守られているという被包感なしに、教育は成立しないそうです。
子どもの頃に「世界は大丈夫、人生は心配ない」と育てられた私ですが、中学生、高校生の頃には、どちらの学校も精神的荒廃が凄く、それは学校に所属する学生の行動になって現れていました。
どの学校でも、いじめ、不登校、暴力を体験しない子どもはいなかった。
「学歴や資格がなければ未来はない」というのが学校の中で教えられる絶対的な教義で、「世界は大丈夫、人生は心配ない」と言っていた親自身の価値観もその頃にはすっかり変わってしまいます。
学歴の無い人間は未来に希望はない。
その中で多くの人が自暴自棄になる。
その教義は教会共同体の中にも浸透しています。
教会の中で希望が見えなかったことが一番辛かった。
生きることの意味が分からなくなっていたそんな私に、もう一度生きる意味を与えてくれたのは、大学で学んだことでした。
中学、高校で行われていることが教育ではなく、企業戦士にするために長い時間、机の前にジッと座らせる訓練をするにすぎないこと。
しかし本来の教育の目的は人の中にある可能性を引き出し、人が人として完成すること。
そんな頃に、復活したイエスに出会ったことで、人間性をはく奪された自分の人間性は回復させられました。
イエスは今も私たちに問うています、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ってしまえば何の益があるだろうか」と。
人はいつか死んでしまうのに、いつか無になってしまうもののためではなく、死んでも残る何か大切なもののために生きたいと望んでいる。
旅する人類が神の道をそれて滅びに向かっていたとしても、人を超える大いなる存在が私たちを支えていることを確信するとき、希望とは何であるのかを私たちは知ることになります。