私は、この春、ついに洗礼を受けました。
ずっと神様から遠く離れて生きてきた私が、なぜ今、信仰の道に入ったのか。
その経緯を少しお話しさせていただきたいと思います。
私は「うみのほし幼稚園」で幼少期を過ごし、その後も小学校から高校までカトリック系の学校に通いました。
毎日の祈りや宗教の授業、ミサといった日常の中で育ちながらも、正直に言えば、私はずっと神様を信じていませんでした。
そんな私が大学に入って間もない頃、ふと手に取った小説がありました。
三浦綾子さんの『氷点』です。
当時の私は「面白い小説だな」と思いながら読みましたが、そこに込められた深いテーマや作者の信仰心にはまったく気づけていませんでした。
物語の展開に引き込まれ、登場人物たちの感情に胸を打たれながらも、それ以上に踏み込むことはありませんでした。
それから10年が経ちました。
あるとき「好きな本は何ですか」と尋ねられ、私は『氷点』と答えました。
「読んでみたい」と言ってくれた友人に本を貸す前に、「もう一度読んでみよう」と思い、再びその本を開いたのです。
ちょうど30歳を迎えた頃でした。
10年ぶりに読む『氷点』は、まったく違う印象を私に与えました。
登場人物たちの苦しみや葛藤、赦しといった感情が、まるで自分自身の人生に重なるように感じられました。
そして、何より心に響いたのは、三浦綾子さんの言葉の背後にある「人間とは何か」「赦しとは何か」という深い問いかけでした。
初めて読んだときには気づけなかったその問いかけが、10年後の私の心に強く響きました。
その後、私は枚方教会を再び訪れました。実に26年ぶりのことでした。
久しぶりに足を踏み入れた教会で、多くの方々が私の問いに真摯に向き合ってくださいました。
その温かさと真剣さのおかげで、私は少しずつキリスト教への理解を深めていくことができました。
けれど、「理解すること」と「信じること」は、やはり別のものだと感じていました。
神様がすべての人を分け隔てなく赦し、愛しておられる。そう聞いても、心のどこかで信じきれない自分がいたのです。
おそらく、自分自身を赦さずに生きてきたからだと思います。
その上、私は、想像力が乏しく、目に見えるものしか信じられないところがあります。
神様についても、「見たことがないからわからない」と思っていました。
けれどある日、ふと気づいたのです。
「神様はずっと私に語りかけてくださっていた。ただ、私がその声に気づかなかっただけなのだ」と腑に落ちました。
その時、私は「見える・見えない」という枠を超えて、すべての人や出来事を通じて神様が確かに働いておられるのだと、心から思えたのです。
私は、これからもきっとたくさんの過ちを犯し、人を傷つけてしまうかもしれません。
そんな自分を赦すことはできない時もあるかもしれません。
それでも、神様は私を赦し、生かしてくださっている。
なぜ神様が私を生かしておられるのか、どのような「役割」を与えてくださっているのか。
その問いに耳を澄ませながら、これからの人生を歩んでいきたいと思っています。
信仰とは、すべてを理解することでも、正しい人間になることでもありません。
欠けたまま、迷いながらでも、神様の声に耳を傾けて歩んでいく❘そんな生き方を、私はこれから選んでいきたいのです。