高校の卒業を翌年に控えた春、プロテスタントの教団を母体とする私の母校の敷地に新しい礼拝堂が完成しました。その礼拝堂の立派な外壁の上部に何やらギリシア文字が書かれていて、 落成祝いの式典の中でそのギリシア文字で書かれた言葉が「宝を天に積みなさい」と言う聖句であることを知りました。
先ごろ日曜日のミサの福音がたまたまこのみことばに当たっていたので、 説教の準備をしながらあらためてこの聖句のこと、高校時代のことを思い出していました。
当時キリスト教に全く無関心だった私の頭の中にそんな聖句のことが残っていること自体考えてみると不思議なことで、 神様が私の心にみことばの種を蒔いてくださったとしか言いようがありません。しかし、そのみことばを自分の心の中に育てるとなると難しいことです。
さて、私は今年の春から主任司祭のハイメ神父さん、そして87歳のフラデラ神父さんと住んでいますが、 フラデラ神父さんは高齢からくる手首の痛みのために定期的に病院に行かなければなりません。日本人ということもあり私が病院にお連れする役目なのですが、 フラデラ神父さんは通院の電車内や病院の待合室で座っている時などに 「あなたは天国の預金通帳にまたお金を積み立てましたね・・・」と言います。
食卓の準備や洗い物をしたり、私自身コーヒーが好きなこともあって、 コーヒーを入れるときには同じくコーヒー好きのフラデラ神父さんにもついでだからと差し出します。するとまた「あなたは天国の貯金通帳に貯金が沢山たまったでしょうね。今日は3デナリオですね・・・」そんな風に言われます。
修道院の中で私が一番若いのでこまめに動くことは当たり前のことであって、別にそれ自体は誉められるに値しません。本当に心を込めてやっているかと聞かれれば、そういった自負もありませんから私は照れくさくなりすぐに話題を変えます。しかしフラデラ神父さんから「今、天国の貯金はいくらくらいになったでしょうね・・・もう3タラントンくらいですか」 と優しい声で言われ続けていくうちに自分の目の向かう先が何だか知らず知らずのうちに、 「神父さん頑張っていますね」といったこの世的な評価よりも天国の貯金通帳の方に関心が向けさせられていくような気になるのは不思議です。
聖書のみことばは美しく、耳にした直後は襟を正させられる思いがすることもありますが、 「ああ素晴らしい・・・」と、それをそのままにしておけば消えてしまいます。宣教者、みことばの奉仕者とは、人の心に蒔かれたみことばの種に水をやり育てていける人、 その人の生活の中で理解しやすいように言葉と行いで示し勇気づけることのできる人のことを言うのでしょう。
私がフラデラ神父さんによって、高校時代に心の中に蒔いていただいたみことばの種を育てていただいたことは、 他の人から見ればささいなことかもしれませんが、私にとってこの体験は貴重な宝です。洗礼を受けてみことばを伝える使命をいただいた私たちにとって、自分の心に蒔かれた種を人や出来事を通じて育ててもらうこと、 そして隣人の心に蒔かれた種を育てること、どちらも必要な気がします。