この病は死に至らず ー日本基督教団 森小路教会 牧師ー 河北朝祷会より(2016.9.18 第192回)

エルサレムからそれほど遠くないところにベタニアという村があり、そこにマルタ、マリア、ラザロという兄弟姉妹がいました。イエス様は彼らととても親しくしておられたようです。マルタとマリアについては、ルカによる福音でもその性格の違いが記されているところがあります。

行動的、積極的なマルタに対して、静かで話を聞くのが好きなマリアはここでも対比されています。今、この姉妹は兄弟ラザロが重い病気になったので、イエス様に来てほしかったのです。そこで人をイエス様のもとに遣わしました。おそらく彼女たち自身が行くよりも、早く伝えられると思ったからでしょう。それほど早く来てほしかったのです。

人がイエス様のところに着くと、イエス様は言われました「この病気は死で終わるものではない」と。文語訳ではここは「この病は死に至らず」となっています。キルケゴールの『死に至る病』はこの箇所に拠っています。死に至る病とは絶望のことです。絶望とは希望がないこと、そして神との関係が破綻していることです。それはあえて神を求めない絶望という罪があるということです。

イエス様は、ラザロの死は神の栄光を受けるためであると言われます。それは神との関係があるということであるので、絶望ではないつまり死に至らないということなのです。イエス様は二人の姉妹を愛されていたのにもかかわらず、すぐには出発されなかったのです。それは時を待った――すなわちラザロの死を待ったのです。

ラザロは神の栄光を現すためにもここでいったん死ななければならなかったのです。するとイエス様は言われます「ユダヤに行こう」と。ユダヤはイエス様にとって危険なところでした。イエス様は今まで逃れてきていました。しかしそれはまだ捕まる時ではないと判断したからであって、まだそのときではないと知っておられたからでした。けれども今はユダヤに行く時なのです。イエス様はたじろがず雄々しく向かいます。イエス様は苦難をあえて受けられます。その苦難と死によってラザロは甦るのです。

イエス様はラザロを友と呼ばれました。イエス様は人に対して奴隷のように絶対服従を求めないのです。愛のある対等な関係として、自由な選択の余地を残して、つまりあえて人としての人権を尊重してキリストご自身を愛するようにと願っておられるのです。ここにはイエス・キリストの真の愛と謙遜が見られるのです。

するとここでディディモと呼ばれるトマスという弟子が出てきます。ディディモとは語源的には2と関係しているので、双子あるいは疑いということだと思われます。トマスは言いました「一緒に死のうではないか」と。とても気分が高まっているようです。しかしこのようなトマスも復活の主でさえなかなか信じようとはしませんでした。そのような弟子たちを友とし愛されたイエス様。

イエス様は十字架に向かってご自分を低くされました。そして父なる神はこのイエス・キリストを高く上げてくださったのです。