出迎えるこころ 長崎壮神父

クラレチアン宣教会の創立170周年にあたり、枚方教会では7月14日(日)に宣教について考え、特別に祈る日としてクラレチアンミッションデーという初めての試みを行いました。

これに先立つ11日から枚方教会には香港からの14名、レジデンスにはマカオからの19名の巡礼団を迎えて一週間を共に過ごすことになりましたが、ミッションデー当日の11時のミサは久しぶりに聖堂が人で溢れかえり、皆が心をひとつにして祈ることができたと思います。

今回枚方に迎えた巡礼者の人々ですが、ほとんどのカトリック巡礼ツアーが快適なホテルに宿泊し、バスで各所を移動する御時世の中、クラレチアン会の司牧する教会の雰囲気を感じたいという願いから教会の信徒会館で宿泊することになりました。

旅程も前の晩に参加者の体調を見ながら計画を立てるという日替わりだったため、迎える側としては戸惑うことも多かったのですが、戸惑うということはきっと私たちが計画を立ててそれを忠実に実行することで満足する生活に慣れているからなのでしょう。

その意味でミッションデー当日に朗読された福音が 「善きサマリア人のたとえ」だったことは私にとって大変示唆的でした。

旅の途中で大怪我を負った旅人を見かけた三人の登場人物がどのように関わっていくか…という話ですが、考えてみれば私たちの人生の旅路も旅程は立てどもその通りにいかない、いわばアクシデントの連続の旅です。

思いがけないことに出会ったときに私たちがそれにどのように応えていくかが絶えず問われ続けます。

さて、今回の巡礼団に積極的に関わってくれた枚方教会の信者さんたちに御礼の言葉をかけたところ、ほとんどの人から「自分が外国に巡礼で行ったときに当地の人々に温かくもてなしを受けたので、今度はそれに恩返しをしたい」という言葉が返ってきました。

巡礼者のほとんどの方が広東語のみの話者でしたので言葉という便利な道具は使えませんでしたが、言葉を越えた心の対話で巡礼者の疲れを癒やし、喜びをもたらす信者さんが多くいて私たち司祭も多く学ばされました。

宣教というと言葉でのべ伝えることと思いがちですが、何よりも人を温かく迎え入れる心、話すことよりも相手の心の声を聞いて寄り添うことが大切です。

教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』には、「出向いていく教会」という言葉が出てきますが、教会が外の世界に出向いていくためには先ず私たちの中に人を温かく出迎えるこころがあるかどうかです。