信徒の召命と使命 ーカトリック枚方教会信徒 P.Kー 河北朝祷会より (2017.6.8 第201回)

「沈黙」の映画、高山右近の列福にあたって、いく人かの信者が、心配や失望の気持ちで、「キリスト教はこの国に何の有益をもたらしたか?なぜキリスト教徒は最初と比べて、成長しないか?」と自問しました。

この危機の時に、大切なことはキリスト教の起源に返ることです。私達はイエスの弟子の継承者であることを実感しています。各々の信者は、神を探し求め、キリストに選ばれ、それぞれの立場と状況において、自分の使命を果たす様に呼ばれています。何のためにイエスに呼ばれていますか?

1、イエスと共にいるためにキリスト者は、キリストと出会い、彼と付き合って、彼をよく知っている者です。福音書を読み、イエスのことを眺め、その言葉を心にとどめて、キリストと長く話し合うことによって、少しずつキリストを知るようになります。

2、イエスに従って、彼に倣うためにイエスは、「私に従いなさい。私は道であり、真理であり、命である」と言われました。

3、良い知らせを告げるためにキリスト者は聖霊の力を経験しています。五旬祭の日に、我慢できないペトロ達は、聖霊の力によって、イエスが生きておられることを皆に知らせます。聖霊の突入から宣教が始まります。洗礼・堅信によって、各々の信者はキリストの復活・聖霊降臨のことを体験して、「全世界に行って、福音を告げ知らせよ」との使命を自覚します。

4、イエスの働きを続けるためにイエスが啓示して下さった神はどの様な方ですか?イエスは、はかり知れない神の事実を、慈しみと憐れみとして実感して現します。イエスにとって、神は力ではなく、慈悲の心です。御父は全てのことを慈しみの目で見ておられます。イエスは慈しみの神を、?命の友として,②虐げられた人の神として、?赦すお父さんとして体験して現します。周りの人達も一人一人、自分の弱さ・痛み・足りなさを背負っています。私達の勤めは、人をイエスの様に見、受け入れ、赦し、癒すことです。

5、信者はみな同じ使命を受けています。初めてキリストを受け入れた最初のキリスト者は、夫婦であり、家族で、共同体であるヨセフとマリアでした。初代教会は、兄弟の共同体の姿を見せています。信者は、賜物が多く、奉仕が異なるけれど基本的にみな平等であり、同じ尊厳を持っています。昔は信徒の勤めが三つだと言われていた。一つ、祭壇の前で跪くこと。二つ、説教台の前に座って、よく聴くこと。三つ目は奉納の時に財布を出して、献金箱に寛大に献金すること。しかし、聖ペトロは勧めます。「あなた方はそれぞれ、賜物を授かっているのですから、その賜物を生かして、互いに仕えなさい」(1ペトロ4:10)。

6、ヨハネ・パウロ2世が書かれたように、「信徒は特に自分の生活のあかしを通してキリストを他の人々に現すよう召されている。」私達の一番重要な宣教の勤めは、自分の責任のある世俗的な任務をきちんと果たすことです。良い父親、母親、夫婦、隣人、サラリーマン・学生であって、キリストらしい生活の典型であること。