「常識。それ本当?」 ーカトリック枚方教会信徒ー 河北朝祷会より (2017.9.14 第203回)

今日、お話しするのは、教会は外の世界が求めるものに通じる言葉をもっているだろうかということです。今、社会活動委員会にいます。主に平和運動、学び、福島原発やフィリピンのストリートチルドレン、あるいはアフガンのペシャワール会の平和的国際貢献の支援、釜ヶ崎の手伝いなど、 社会の福音化、教会の本来の活動の旗振りです。その他に教会の人達が、それぞれのあり方で必要な人の相手をしています。

大抵は孤独で不安を抱えている。教会で説かれるすばらしい世界から外れている。教会とこの人の間に、どれだけの距離があるのでしょう。教会があたりまえとしてきたことを素直に見たらどうだろうと思います。この前、家族がLGBTだという人に会いました。その人達の言っていることは、自分は自分として生きたい。それだけのことです。嫌悪感は、私達、多数派の文化がそうだというだけのことかもしれません。慎重に扱わねばなりませんが、存在の否定から始まるのは疑問です。

自分を基準にしたら、減点法になって、異質なもの、自分以外のものは全部駄目という発想になります。他にも、教会と外との温度差と思えるものがありますが、控えます。

今、多くの人が明日は社会の居場所を失くすかもしれないという不安を抱えている。そこから、自分と違うものを排除しようとする。相模原の事件やヘイトスピーチがそうです。その中で神をどう伝えていくのか。どうつながるのか。目に見えない世界に気づいている人も、主が復活されたことも「特別なことではない」。十字架のあがないも「西洋の世界観、理屈ですね」と、主を預言者か聖人のように受けとめている。この中で私達が伝えるものは何でしょうか。二次的なものが前に出ているのかもしれません。それらをそぎ落とした時、伝わる言葉が見つかるかもしれません。慎重に扱わないと別の福音に迷い込むかもしれませんが、本来は単純なものだったでしょう。

教会も今のような儀式のための道具や飾りもなく、家で、あるいは安アパートの集会から始まっています。その時はどうだったでしょうか。ベタニアの人はどうだったでしょうか。私達はこの世界にそれぞれ魂のテーマを持って生まれてきました。テーマの基本は愛を学ぶことでした。互いを大切にする事を学ぶために、そして大切にされることを学ぶために生まれてきました。その中で苦しむ人は、もう一人の私達として、その役割を担ってくれている。

福音も単純なのかもしれません。主は私たちに具体的に目に見える形で神を示してくださった。この人はまさに神ご自身でした。その人は、私達が互いに生かし合える、生きられる存在だと気づかせてくれた。傷つくもののない世界、平和の希望を示してくれた。更に、敗者復活戦を常に用意してくれている。魂のテーマに沿って、人の思いに関係なく、必要なもの、必要な人が、必要なタイミングで与えられている。十字架の後も罪責感、絶望にあった私達に愛を示してくれた。

ここまできたら、神様、降参というしかないです。信頼していたらよい。理屈も何もない。ベタニアの人は、素直に自分を開いて、主を見つけました。世界が主を理解できなかった時に、主に油を注ぎ、この人がキリストであると明らかにしました。この人の姿に希望をもちます。