種まきのたとえ  ー茨木東教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.12.14 第206回)

教会に導かれて知ることとは、主イエス・キリストがどのようなお方であるかということです。主イエス・キリストは、私たちが主を信じることに先立って私たちを受け入れてくださり、十字架の上で死んで私たちの罪を赦してくださり、三日目の復活によって新しいいのちへと導いていてくださる方です。主イエスは罪人を愛し、その死への運命を憐れみ、死と滅びから救ってくださった方です。この恵みを知らされ、人は悔い改めに導かれたのです。この私たち自身が、み言葉が語る良い土地です。
種は道端にも石地にも茨の中にも蒔かれたのですが、それらの地は種を育てることができませんでした。一方で、良い土地に蒔かれた種が豊かに成長したのは、その土地が柔らかであったからです。主イエスが「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのは、主のみ言葉を聞くことで私たちの心が柔らかになるからなのです。今、私たちの心が道端や石地や茨の中であっても諦める必要はないのです。大切なことは、主のみ言葉を聞き続けることだからです。

試練を経験して、私たちの心も道端のように固く頑なになることがあります。誘惑を受けてしまい、聖書のみ言葉を聞き続けることができなくなる時があります。あるいは、様々な雑念に邪魔をされて、主を信じることが困難になることもあります。

今日のたとえが教えるのは、その現実の中でこそ主のみ言葉を聞き続けることの大切さです。自らの頑なさや弱さ、愚かさをわきまえ、そのような自分に忍耐して、み言葉を聞き続けることが大切だと語るのです。主イエスは8章15節で種を蒔く人のたとえを説明して「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と言われています。主イエスは、私たちに聖書のみ言葉を聞き続け、聖書の語る父なる神の愛と憐れみに固く立ち続けて欲しいと願っておられるのです。

8節の「ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」は、主イエスから私たちへの約束のみ言葉です。この約束があるからこそ、私たちは主のみ言葉に従い、自らの弱さや愚かさを抱えつつ、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して、主の救いを信じて生きることができるのです。

新しい朝を迎えました。主イエスのみ言葉を聞いて新しい朝を始めることができました。この朝を主のみ言葉と共に歩み始めることのできます幸いを覚えつつ、私たちには真実に新しい朝が約束されていることを思います。ですから、神の朝の望みに向かって忍耐して生きることが「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた主のみ言葉に応えることです。主が約束された復活の朝、神の朝に向かって忍耐して生きることこそ、主がお求めになることです