北地区福島訪問 福島巡礼で見たもの 社会活動委員会  O・I

6月8日~11日、今回は南相馬、飯館村、二本松などを訪問した。参加者は、ハイメ神父(社活担当)、ブラッドリー神父(梅田B協力)、ナン助祭と各教会信徒の計10名。

前向きに生活を取り戻す人がいる
避難解除の日は、他人が住所や生活を決めるのではなく、自分で選び決められるようになった日。泣いている町ではなく、楽しい喜べる町に人は来る。小高は0から4千人、日本で一番人口が増えた町だ。

取り残された人がいる
避難解除は人の切り捨て。補償も打ち切り。復興住宅に移っても生活できない。伴侶を亡くした人などが孤立する。 
低額の年金で畑で半ば自給していた人が、お金を使っての生活になり、行き詰まっている。仕事を奪われたのに生活費がいる。家を直すにも数百万かかる。畑も一から作り直し。農機もなくし、老齢で再建できない。希望がなく、生活が荒れる。自死、孤独死、うつ、アルコール依存、引きこもりが増えている。
今も柵で隔てられた無人の町が動物に荒らされ、山に飲み込まれていくのを見るだけ。家が見えるのに入れない。来るごとに針を刺される気持。

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神の作品として生きる  -関西牧会塾ディレクター 牧師 豊田 信之 ー 河北朝祷会より (2019.7.11 第224回)

私たちは神の「作品」であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エフェソ書2章10節)

キリスト者は自らが「神の最高傑作品」であることを知らなければなりません。ミケランジェロがダビデ像を完成させたとき、大理石のなかに閉じ込められていたダビデを取り出したと表現したそうです。唯一無二の芸術家である神様は、私たちがどのような状態の中にあっても、自分で自分を愛せない、赦せない、いや、自分を憎んでいたとしても、キリストの内にある私たちの「真の自己」を見つめていてくださり、閉じ込められている「神の最高傑作品の私」を取り出してくださるのです。

私の父は私生児として生まれました。小学生の頃、「おばちゃん」と呼んでいた人が実の母だと知らされ、出自の事実を告げられたのです。その瞬間、父は自分なんか生まれてくるべきではなかったとの深い拒絶感に打ちのめされました。

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いつも苦しみから逃げていると、 幸せからも遠ざかる フリオ神父

梅雨の晴れ間からは、真夏を輝かせる太陽が続いていますが、枚方教会の皆さん、お元気ですか。気温の上昇とともに、水分補給と自己管理を行い、健やかに過ごされるように願っております。


さて、私は、8年ぶりに『グアダルペ』の巻頭言の担当に当たって、今回は、「いつも苦しみから逃げていると、幸せからも遠ざかる」という日本の諺について、少し振り返ってみたいと思います。


では、なぜこの諺を選んだのか。どうして聖書の個所ではなく、仏教の言葉を引用させてもらうのかと言いますと、実は、何年か前、お寺の看板に書いてあり、読んでみたら、深く心に響いたのです。


「いつも苦しみから逃げる」というのは、正直、人はみな、よくあることです。人はみな、当然、何よりもまず、幸せの方を選び、できるだけ、それに向けて、懸命に勉強したり、人と関わったり、財産を集めようとしたりします。

「苦しみにする」なんてとんでもない。自分の計画の中、そういったものって、ありえないことでしょう。もちろん、それよりも、利益、気楽、安らぎ、幸せ、楽しみの方を選び、頑張って生きています。

ですから、人は、基本的に、苦しみから逃げるという傾きを認めざるを得ません。


しかし、仏教においても、キリスト教においても、いつも苦しみから逃げていると、何だか、本当の幸せ、真のいのち(復活)から離れ、遠ざかることを語っているのに気付きました。


マタイによる福音も、山上の垂訓でのイエス様が、「悲しむ人々は、幸いである」とおっしゃっています。宗教観が全く違い、不思議に思いますが、苦しみ、悲しみの中を過ごすとともに、人の目に見えないけれど、恵み、祝福、真理、学び、成長、深い幸せにつながるものがあるということです。


毎日、我々キリスト者は、キリストの過ぎ越しを思い起こすミサを行っています。「いつも苦しみから逃げていると、幸せからも遠ざかる」ということわざを心に留め、キリストの苦しみと私たちの苦しみを共にして、逃げるよりは、勇気を出して、地上でも主キリストが約束された本当の幸せに向かって、日々、信仰生活をおくることができますように努めていきましょう。

婦人会黙想会  寄稿者N.T

6月7日に恒例の婦人会黙想会が開催され、ザベリオ会のロッコ・ビビアーノ神父が講話をされました。
その要約を紹介します。

「神の霊があなたがたの内に宿っている。」

黙想会の目的は信仰を育てることです。私たちにはその義務があります。黙想会においては、日常生活から離れて神と一緒にいる時間の中で、神を良く知り、神の気持ちを深く理解し、神に近づき、神をより愛するようになります。普段の生活に戻っても、神への心の姿勢は残り、信仰も神への愛も深まり、希望、喜びを生活の中で実感できたなら、黙想会の実りを感じるでしょう。


今日、このテーマを選んだのは、まもなく聖霊降臨の日だからです。聖霊降臨の日は教会の日です。個人の信仰がキリストのようになりますと、教会もキリストのようになります。

聖霊は神です。私たちと一緒に歩く神です。聖霊と人格的な関係を築きましょう。


ここで、聖書によって、聖霊と弟子たちの生活について学びたいと思います。そこで聖パウロのローマの信徒への手紙8章5節の「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」を取り上げます。

ここでの肉と霊の意味は、肉体と魂ではありません。肉に従って生きるとは、自分の欲しい物を求めて生きること、神の霊に従って生きるとは、神のみ旨を行うために生きることです。この生き方は全く異なります。神のみ旨を伝えるには、聖霊と関わらなければ難しいのです。


次に、聖霊について聖書を見てみましょう。聖霊の働きは、旧約聖書と新約聖書の両方に出てきます。旧約の時代に現れる聖霊は、特別な人に神さまから与えられています。特別な人とは、神さまから与えられた使命を持っている人、イスラエルの王、指導者、預言者です。

いずれの場合も、神はみ旨を行うとき、使命を果たすために聖霊を与えています。しかし、新約の時代なると、洗礼を受けた全ての人に与えられます。私たちにも、聖書に登場するような指導者モーセ、ダビデや預言者エリヤ、イザヤ、エゼキエルと同じ聖霊が与えられています。私たちも弟子たちと同じような聖霊を受けているのです。私たちもキリストと同じような仕事、使命を与えられているのです。教会の存在する理由は、キリストの使命を実現することです。キリストが人間になったのは全人類を救うためです。


聖霊降臨のとき、聖霊は教会に皆が集まったときに与えられました。だから一人一人に与えられたのと教会に与えられたことはつながっています。教会では、共同体の責任と個人個人の責任はつながっています。教会の聖性は一人一人の努力の結果です。聖性が高まれば、聖霊は、教会を使って神の存在、神の愛を現わされます。それは一人一人の努力の結果です。

つまり私たちは、自分の中にいる聖霊を意識しなければならないのです。私たちも聖霊をもらったのですから、人を救うために働かなければなりません。個人では限りがありますが、力を合わせれば大きな力となります。


最後に、皆様へイエスが昇天する前の御言葉を贈ります。

「あなたがたの上に聖霊が降りると、あなたがたは力を受ける、そしてエルサレムだけでなく、ユダヤとサマリアの土地、地の果てに至るまで、私の証人になる。」

スペイン・ルルド巡礼 グァダルーペ列福式と 聖ホセマリア・エスクリバーの足跡を辿る巡礼 寄稿者O.H

グァダルーペの列福式

私の家族の歴史は巡礼の歴史です。父と母は新婚旅行で4週間のヨーロッパ巡礼をしました。私が生まれ、妹が生まれ、家族の喜びは大きくなりました。と同時に、困難に出会った時、大病をした時、別れを経験した時、いつも祈りの中で物事を見て、うまく乗り越えられたあとは必ず巡礼に出かけました。マリア様に感謝の祈りを捧げるためです。


今回、酒井補佐司教様と一緒にスペイン・ルルドへの巡礼に出かけようと思ったのも家族の節目にしたかったからです。


2年半前に52歳で急逝した父と共に、「日常生活の聖人」聖ホセマリアの足跡を辿りながら、この世の真只中で聖性を求める生き方を探したいと思いました。

全ての人が聖性に召されているとはどういうことなのか。修道者でない、殉教者でもない、一般信徒が本当に聖人になれるのか。

その答えは、マドリードで参加したグァダルーペの列福式で見つけました。グアダルーペ・オルティスという女性は、聖ホセマリアから様々なことを学んだそうです。神様の望まれるように生きる、深い信仰と豊かな内的生活を基盤として、女性たちや困窮している家族の教育と発展に力を注ぎました。

彼女は化学者でもありました。1975年に59歳で亡くなるまで、日々の生活の中でキリストと出会い、自分の仕事を聖化し、病気を超自然的に捉え、もう一人のキリストになる戦いをした人です。ごくごく普通の信徒でした。


列福式には世界中から何万という人が集まりましたが、深い家族的一致が感じられ、喜びにあふれていました。沢山の信徒がゆるしの秘跡にあずかっていました。老若男女、職業や立場の違う人達が皆家族を大切にし、熱心にごミサにあずかり祈る姿に感銘を受けました。

全ての人が日常生活の中で聖人になる方法をこの目で「見た」ような気がします。例えば、人の悪口を言わない、朝決まった時間に起きる、守護の天使と深く付き合う、こんな小さな戦いが聖性の道の一歩になるのだとわかりました。


恵みをたくさんいただきました。父はもうこの世にいませんが、これからも家族の巡礼の旅は続きます。

五島列島巡礼の旅

6月11日(火)から14日(金)まで、長崎壮神父同行の「五島列島・日本最古のルルドと迫害の地、巡礼の旅」に参加しました。枚方教会からの参加者は神父を除いて12名でした。


一日目は移動日で、下五島福江港の近くにあるホテルに宿泊し、二日目の朝は有志ですぐ近くの福江教会を訪ねてお祈りをしました。
五島巡礼最初のミサは、井持浦教会にある日本最古のルルドでの野外ミサです。

晴天に恵まれ、さわやかな風、ウグイスのさえずり、トンボも突然参加するという自然と一体となった野外ミサは、言葉では言い表せない素晴らしいものとなりました。ミサの準備をして頂いた井持浦教会の信者の皆様に感謝です。


昼食後、楠原牢屋跡の中を見学しました。今回一緒に巡礼された方のご先祖や親族がこの迫害を受けられたとのことで、全員でお祈りを捧げました。その方はそのお祈りに感無量のご様子で、それを見た私たちも感動し、単に話を聞いただけでは得られない貴重な体験をさせて頂きました。

原牢屋跡 信徒は狭い場所に立ったままで閉じ込められ、朝夕に一切れの芋の生活を強いられた。

三日目はチャーター船にて久賀島に渡り、牢屋の窄(さこ)殉教記念聖堂にて殉教者のために祈願するミサが行われました。窄(さこ)とは狭い所という意味です。
久賀島からキリシタン洞窟クルーズを経て上五島に渡り、信者の経営するホテルに宿泊しました。


四日目は、上五島の教会巡礼で、先ず前田枢機卿の出身教会である仲知に向けて出発。曲がりくねった細い道を北上し、添乗スタッフから急斜面に立つ枢機卿の生家を教えて頂きました。仲知教会では巡礼最後のミサが行われ、巡礼中の6月12日に帰天されたパウロ佐々木義治様のためにも祈りました。

        仲知教会でのミサ

この巡礼では14の教会を巡りましたが、五島列島全体で46もの教会があり、しかもそれらが立派に維持されていることに驚かされます。


五島巡礼を通じて感じたことは、神を信頼し信仰を守り抜かれた方々の強い心です。私たちは、日常このことを思い起こし、くじけそうになっても勇気づけられ、信仰を守り続けることができますよう祈ります。

聖霊を信じます  ーカトリック枚方教会信徒 K・Pー 河北朝祷会より (2019.6.13 第222回)

聖書の専門家は、神の啓示の歴史を三つの段階に分けます。


第一の段階はアダムから洗礼者ヨハネまでイスラエルの時代、約束の時であり、父の時代とも呼ばれます。


第二の段階では、神の子は人間となり、神が誰であるかを示して、救いをもたらします。それはイエスの時代、救いの時代です。日曜日に私達が祝ったペンテコステ・聖霊降臨から世の終わりまで。


第三の段階であるこの時代は教会の時代、聖霊の時代なのです。


聖書によれば、神は霊であり、霊はヘブライ語で、「ルーアッハ」と言って、息吹、ひと吹き、風の意味です。霊は目に見えないけれど力があります。それは、我々の生命にとって呼吸するように、重要です。風の様に、嵐の様なエネルギーをもっています。暖かい光線が太陽から由来するように、聖霊は、神である御父と御子から出て、父と子と同じ様に神です。いのちの与え主であって、人の中で働く神自身です。


イスラエルで、士師や預言者や王達は神に托された任務を果たす為に、一時的に霊の力を授かります。イザヤは、メシアの上に「主の霊が留まる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」と預言します(イザヤ⒒・2)。


聖霊の働きによって、母マリアはイエスを宿します。イエスはいつも聖霊と共に生き、霊の力によって、宣教活動をし、悪霊を追い払い、病人を癒して、奇跡を行います。


イエスは、弱気な弟子達を強める為に、別の弁護者、慰める方、助ける方を送ることを約束します。その方は弟子達にイエスの言葉を理解させて、イエスのいのち・精神・原動力を与えます。


宗教的な次元では、私達はペンテコステの日に始まった聖霊の時代、聖霊元号を生きています。ペンテコステの日、恐怖に襲われた弟子達は霊的な熱意で一杯になって、イエスの事を勇敢に証言しました。心から心へ話したペトロの言葉は皆に理解されて、聞いた人々の心に届きました。その日、三千人ほど信仰を抱き、洗礼を受け、イエス・キリストの内の共同体となりました。


私達は使徒信条で「わたしは神の聖霊を信じます」と唱える。


聖霊は、私達一人一人に、良心を通して語り掛け、使徒の証言と教え、我が共同体に創造性とダイナミズムを与えて、行動するように促して下さいます。

先月、感動させるいくつかの便りを聞きました。


5月7日に、知的ハンデイをもつラルシュ共同体の創立者ジャン・バニエはパリで亡くなりました。知的ハンディがある人と一緒に長年暮らして、与えたものよりも受けたものの方が多いと言い、各々の人の偉大さを強調しました。


18日に、自分の父を殺した人達を心から赦したグアダルーペ・オルティスはマドリードで列福されました。


19日に、中央アフリカ共和国でイネス・サンチョは殺されました。危ない所へ出ていくなとの忠告に応じないで、裁縫を教え、困っている女性達を見捨てない為、殉教の危険を選んだ人です。


これらの素晴らしい人達は、自分の活動を通して、神の霊が働いた事を見せています。


彼らが聖霊の導きに素直に従った様に、私達も聖霊のささやきを聞いて、聖霊に動かされて行動すれば、幸せでしょう。いつも回心の態度を持ち、イエスの福音を見直して、マリアと共に、聖霊が豊かに注がれるように切に願いましょう。

Philippine-English Connunity Hirakata Church Filipino community(フィリピンー英語共同体) 2019年7月

After the lenten season to easter, in thePhilippines, Flores de Mayo (spanish for Flowers of May) is a festival held in the month of May.It is one of the May Devotions to the Blessed Virgin Mary and lasts for the entire month.Devotees offer flowers and prayers to an image of Mary every night.

The Santacruzan(holy cross) is the ritual pageant held in the cities, towns, and even small communities throughout the Philippines on the last day of the Flores de Mayo and novena is held in honor of the Holy Cross. It honors the finding of the true cross by Helena of Constantinople (known as Reyna Elena).

There is a procession during Flores de Mayo and the participants would follow the typical arrangement.The procession is accompanied by the steady beat of a local brass band, playing and singing the “Dios Te Salve” spanish version of the Hail Mary.Devotees hold lighted candles and sing the prayer as they walk.It is customary for males, participating in the santacruzan to wear the traditional Barong Tagalog, and that the females wear any filipina- inspired dress.(Contributed by Mrs. A・O)

枚方教会 フィリピン英語共同体

四旬節と復活祭の後、フィリピンでは5月に「5月の花」の祭が祝われます。それはマリア様への奉献行事の一つで、1か月間続きます。敬虔な信徒は、毎晩、花と祈りをマリア像に捧げます。

「聖なる十字架」は、「五月の花」の最終日にフィリピン中の市や町や村で行われる儀式的な行列です。「聖なる十字架」のためのノヴェナ(9日間)の祈りも行われます。これは(レイナ・エレナとして知られている)コンスタンティノープルのヘレナが真の十字架を発見したことを記念するものです。

「5月の花」の期間中には行列があり、参加者は(写真のような)独特な取り決めに従います。行列には土地のブラスバンドがつき、きれいに音頭をとって「マリア、万歳」のスペイン語の「Dios Te Salve」 を演奏し、合唱があります。信者たちは灯のついたろうそくを手に、歩きながら祈り歌います。「聖なる十字架」に参加する男性は、伝統的なタガログの衣装を、そして女性はいろいろなフィリピンの衣装を、身に付けます。

ありったけのご馳走 助任司祭 昌川 信雄

“天上の御馳走は、大皿の『めざし一匹』で満足! ”
地上ではそうはいかないので、イエス様は天に帰られたとき、私たちの地上のテーブルに、ありったけの御馳走を盛ってくださいました。

それが、主の昇天に続く祭日尽くしの典礼です。

6月の祭日

2日  主の昇天
9日  
聖霊降臨の主日
16日 
三位一体の主日
23日 
キリストの聖体
24日 
洗礼者聖ヨハネの誕生
28日 
イエスのみ心
29日 
聖ペトロ・聖パウロ使徒

楽園を閉ざされた人類が楽園に戻る道は、神にしか造れなかったので、を世に送り、十字架(体を捨て心で造る楽園への道)を歩ませて、私たちの罪による死(自我に住む悪霊の支配)に対する完全な勝利(復活)をもって人類が楽園に戻る道を開かれたのです。

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あなたがたに平和があるように ー日本キリスト改革派 男山教会 牧師 宮武輝彦ー 河北朝祷会より (2019.5.9 第221回)

〔ヨハネによる福音書20章19~23節〕

先日、5月6日、わたしの母教会の(改革派)広島教会で、新会堂の献堂式があり、わたしも出席をゆるされました。その途中、4月にリニューアルされた広島平和記念資料館に立ち寄りました。

1981年2月25日、教皇ヨハネ・パウロ2世が広島を訪問されたことを思い起こします。当時在学(中学3年生)していた広島学院では、通常授業は休みになって、全校総出で平和公園へ行きました。そこで、「戦争は死です。戦争は人間の仕業です」との日本語のメッセージを聞いたことをよく覚えています。それは、わたしにとって、非常に強烈なメッセージで、心に残り続けています。

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