教会に導かれて知ることとは、主イエス・キリストがどのようなお方であるかということです。主イエス・キリストは、私たちが主を信じることに先立って私たちを受け入れてくださり、十字架の上で死んで私たちの罪を赦してくださり、三日目の復活によって新しいいのちへと導いていてくださる方です。主イエスは罪人を愛し、その死への運命を憐れみ、死と滅びから救ってくださった方です。この恵みを知らされ、人は悔い改めに導かれたのです。この私たち自身が、み言葉が語る良い土地です。 “種まきのたとえ ー茨木東教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.12.14 第206回)” の続きを読む
街頭募金活動
募金活動は12月10日(日)に、枚方市駅前において午前11時半から午後2時半までの3時間、1時間ごとの3交代制で実施しました。今回は東日本大震災で被災された障害者支援のための募金活動で、震災から既に6年半余り経過していますが、現実はまだまだ支援が必要な状況です。 “街頭募金活動” の続きを読む
主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう。 ーカトリック枚方教会 T.Fー 河北朝祷会より (2017.11.9 第205回)
これは、日本のカトリック教会の聖体拝領前に唱える言葉です。信仰の宣言と、キリストから離れない決心を表したような言葉です。ミサや礼拝の中で特別にキリストを近くに味わうことのできる聖体拝領、聖餐式は、イエスさまの遺してくださった人類への宝だと思います。神さまを頂く宗教、永遠のいのちのパンを頂く宗教が他にあるでしょうか。 “主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう。 ーカトリック枚方教会 T.Fー 河北朝祷会より (2017.11.9 第205回)” の続きを読む
為政者のために丁寧に祈れ -枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.10.12 第204回)
衆議院議員選挙が近づいているが、教会では、政治のことについて語るのは避けるべきだという風潮がある。その理由として「政教分離」の原則だから、と言われたりするが、政教分離は、政治が宗教に関わってはいけないということで、教会で政治のことを話題にしてはいけないということではない。聖書はこのことについて、どう言っているだろうか。 “為政者のために丁寧に祈れ -枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.10.12 第204回)” の続きを読む
「常識。それ本当?」 ーカトリック枚方教会信徒ー 河北朝祷会より (2017.9.14 第203回)
今日、お話しするのは、教会は外の世界が求めるものに通じる言葉をもっているだろうかということです。今、社会活動委員会にいます。主に平和運動、学び、福島原発やフィリピンのストリートチルドレン、あるいはアフガンのペシャワール会の平和的国際貢献の支援、釜ヶ崎の手伝いなど、 社会の福音化、教会の本来の活動の旗振りです。その他に教会の人達が、それぞれのあり方で必要な人の相手をしています。 “「常識。それ本当?」 ーカトリック枚方教会信徒ー 河北朝祷会より (2017.9.14 第203回)” の続きを読む
サムエル記上1章21~28節 ー森小路教会ー 河北朝祷会より (2017.7.13 第202回)
預言者サムエルはイスラエルの歴史において大きな役割を果たした神の人であります。 しかし、少年サムエルが祭司エリのもとで主に仕えていた時は、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれでありました(3・1)。なぜなら、聖なる神様を汚す人間の堕落した行為があったからでした。それにもかかわらず、神様はご自身の業を成すために、人を選び、私たち人間の世界を導いてくださったのです。 “サムエル記上1章21~28節 ー森小路教会ー 河北朝祷会より (2017.7.13 第202回)” の続きを読む
信徒の召命と使命 ーカトリック枚方教会信徒 P.Kー 河北朝祷会より (2017.6.8 第201回)
「沈黙」の映画、高山右近の列福にあたって、いく人かの信者が、心配や失望の気持ちで、「キリスト教はこの国に何の有益をもたらしたか?なぜキリスト教徒は最初と比べて、成長しないか?」と自問しました。
この危機の時に、大切なことはキリスト教の起源に返ることです。私達はイエスの弟子の継承者であることを実感しています。各々の信者は、神を探し求め、キリストに選ばれ、それぞれの立場と状況において、自分の使命を果たす様に呼ばれています。何のためにイエスに呼ばれていますか? “信徒の召命と使命 ーカトリック枚方教会信徒 P.Kー 河北朝祷会より (2017.6.8 第201回)” の続きを読む
求めよ、さらば与えられん マタイ7章7~12節 ー日本基督教団 マラナ・タ教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.5.11 第200回)
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この御言葉をそのまま受け入れようとして、苦しい状況で、祈りに祈り、願いに願い続けたけれども、必ずしも望んだような結果があたえられなかったということは、よくある経験です。 “求めよ、さらば与えられん マタイ7章7~12節 ー日本基督教団 マラナ・タ教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.5.11 第200回)” の続きを読む
「聖書と典礼」の 分かち合いクラス ーカトリック枚方教会信徒 T.Nー 河北朝祷会より(2017.4.13 第199回)
このクラスは、昨年復活祭の受洗者で仕事に就いている新しい信徒を中心に、長崎神父さんが5月から始められた毎週水曜日午後8時からのクラスです。主日のミサのテーマの理解目的は、各主日のミサのテーマをできるだけよく理解し、信徒としてその週の生活目標を立て、 祈りを大切に過ごすことです。そのための方法として、翌週の主日の「聖書と典礼」の公式祈願(特に集会祈願)と3つの聖書朗読箇所をよく読み、そのテーマに各人が思いを馳せ、神父さんの指導のもと、イエスの考えと行動を黙想し、それぞれの考えを分かち合います。 “「聖書と典礼」の 分かち合いクラス ーカトリック枚方教会信徒 T.Nー 河北朝祷会より(2017.4.13 第199回)” の続きを読む
私のきらいな聖句 ー 枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より(2017.3.9 第198回)
私は、クリスチャンになって42年。牧師になって34年。祈りにおいて幼子であった私の歩みを振り返りたい。
最初から、「祈り」がよく分からなかった。私の祈りの指針としたのが、エフェソ6章18節だった。「どのような時にも『霊』に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」どのような時にもどんな時にも、祈り願いなさいと招いてくれるのは良いし、ありがたい。
牧師になって、駆け出しの頃、定期的に食事を抜いて、「真剣に」祈ることを始めた。教会の課題のある人たちが、問題から成長していかれるようにと祈るためであった。しかし、数ヶ月祈ったが、問題には、変化が見えなかった。私の内に神への不満すら生まれ、「私には、神様に喜ばれるような祈りはとてもできない」と、これ以上時間を取って真剣に祈るのはやってられないとなってしまった。 “私のきらいな聖句 ー 枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より(2017.3.9 第198回)” の続きを読む