パンとブドウ酒が祭壇上に奉納されるたびに心に浮かべる『兄弟たち』がいます。
私たちが酷暑を避け活動を中断し夏休みをとっていた間にも、ひと時もベッドから離れられずに病と闘っておられた方々です。
その方々にご聖体を捧持するとき一度は耳元でこの話をするようにしています。
「ミサに与れず寂しいあなたのところに、イエス様が毎日ミサをたてに
来られますよ。
司祭が教会でミサを奉げる毎に、イエス様が来られ、あなたのベッドを祭壇にし、あなたの体をパンとブドウ酒の「奉納物」として聖変化し、あなたを尊いものに『変容』なさいます。
ボーイスカウト夏キャンプ・ガールスカウト夏キャンプ
ボーイスカウト夏キャンプ
40度近くに迫る猛暑の中、京都北山から鞍馬寺に抜ける山里、花背山の家にて団の夏キャンプを行いました。
今回は、ボーイ隊スカウト5名、カブ隊5名、リーダー7名の少人数でした。花背は坂道の多いところで、キャンプサイトまでの道は斜度30度ほど有り、活動は暑さと坂道との戦いでした。
スカウト達は、川遊びや魚つかみ、ハイキングなどを楽しみました。ボーイ隊は、手旗サイン、追跡サインなどの基本訓練などに励み、特に充実したキャンプでした。
団委員長 I・K
ガールスカウト夏キャンプ
8月10~12日、滋賀県グリーンパーク山東にてガールスカウト夏季キャンプを行いました。教会にてお祈りの後、梅﨑神父様と共に出発。
キャンプの目的「みんなで力を合わせて、キャンプを楽しむ」を合言葉に、スカウトが自分に与えられた事に取り組み、テントを立てたり、料理を作ったりしました。
リーダーの指導の下、大自然のきれいな空気を吸いながら、思いっきり遊び、いろいろなことを学びました。
神に感謝します。
カトリック平和旬間 2019年テーマ 「平和に寄与する 人になろう」
平和旬間は、1981年に広島で行われた教皇ヨハネ・パウロ2世の平和宣言を受けて始まった。
8月6日~15日の10日間、日本全国のカトリック教会は世界平和のために特別な祈りの行事を持つ。
大阪北地区
北地区の平和旬間行事は8月10日(土)午前10時より今市教会にて行われ、暑さ厳しいなか参加者は170人に及んだ。枚方教会からはわずか11人、これを私たちはどう考えればよいだろうか。
行事は、福島被災地訪問の報告から始まり、今市教会の方が、まだまだ多くの問題を抱える福島の現状を伝えられた。
クラレチアン ミッションデイ
1849年7月16日にクラレチアン宣教会が創設されました。その日に因んで、頂いた賜物と使命に一人一人が気づき自覚してもらうために、今回初めて7月14日(日)に枚方教会にてクラレチアンミッションデイとしてミサが行われました。
香港から14名、マカオから19名、神父様2名を含めて35名が海外からこの記念日に合わせて枚方に来られ、今市、大東、門真の教会からも参加がありました。アベイヤ司教がミサの司式をされ、聖堂は補助椅子を出すほどに溢れました。
第2朗読と聖歌の一部を香港・マカオの信者が歌われ、閉祭の歌「ミゼルコルディア」を一緒に歌い、クラレチアンファミリーとして同じ心で一つになれることの素晴らしさを実感しました。
“クラレチアン ミッションデイ” の続きを読む北地区福島訪問 福島巡礼で見たもの 社会活動委員会 O・I
6月8日~11日、今回は南相馬、飯館村、二本松などを訪問した。参加者は、ハイメ神父(社活担当)、ブラッドリー神父(梅田B協力)、ナン助祭と各教会信徒の計10名。
前向きに生活を取り戻す人がいる
避難解除の日は、他人が住所や生活を決めるのではなく、自分で選び決められるようになった日。泣いている町ではなく、楽しい喜べる町に人は来る。小高は0から4千人、日本で一番人口が増えた町だ。
取り残された人がいる
避難解除は人の切り捨て。補償も打ち切り。復興住宅に移っても生活できない。伴侶を亡くした人などが孤立する。
低額の年金で畑で半ば自給していた人が、お金を使っての生活になり、行き詰まっている。仕事を奪われたのに生活費がいる。家を直すにも数百万かかる。畑も一から作り直し。農機もなくし、老齢で再建できない。希望がなく、生活が荒れる。自死、孤独死、うつ、アルコール依存、引きこもりが増えている。
今も柵で隔てられた無人の町が動物に荒らされ、山に飲み込まれていくのを見るだけ。家が見えるのに入れない。来るごとに針を刺される気持。
神の作品として生きる -関西牧会塾ディレクター 牧師 豊田 信之 ー 河北朝祷会より (2019.7.11 第224回)
私たちは神の「作品」であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エフェソ書2章10節)
キリスト者は自らが「神の最高傑作品」であることを知らなければなりません。ミケランジェロがダビデ像を完成させたとき、大理石のなかに閉じ込められていたダビデを取り出したと表現したそうです。唯一無二の芸術家である神様は、私たちがどのような状態の中にあっても、自分で自分を愛せない、赦せない、いや、自分を憎んでいたとしても、キリストの内にある私たちの「真の自己」を見つめていてくださり、閉じ込められている「神の最高傑作品の私」を取り出してくださるのです。
私の父は私生児として生まれました。小学生の頃、「おばちゃん」と呼んでいた人が実の母だと知らされ、出自の事実を告げられたのです。その瞬間、父は自分なんか生まれてくるべきではなかったとの深い拒絶感に打ちのめされました。
“神の作品として生きる -関西牧会塾ディレクター 牧師 豊田 信之 ー 河北朝祷会より (2019.7.11 第224回)” の続きを読む婦人会黙想会 寄稿者N.T
6月7日に恒例の婦人会黙想会が開催され、ザベリオ会のロッコ・ビビアーノ神父が講話をされました。
その要約を紹介します。
「神の霊があなたがたの内に宿っている。」
黙想会の目的は信仰を育てることです。私たちにはその義務があります。黙想会においては、日常生活から離れて神と一緒にいる時間の中で、神を良く知り、神の気持ちを深く理解し、神に近づき、神をより愛するようになります。普段の生活に戻っても、神への心の姿勢は残り、信仰も神への愛も深まり、希望、喜びを生活の中で実感できたなら、黙想会の実りを感じるでしょう。
今日、このテーマを選んだのは、まもなく聖霊降臨の日だからです。聖霊降臨の日は教会の日です。個人の信仰がキリストのようになりますと、教会もキリストのようになります。
聖霊は神です。私たちと一緒に歩く神です。聖霊と人格的な関係を築きましょう。
ここで、聖書によって、聖霊と弟子たちの生活について学びたいと思います。そこで聖パウロのローマの信徒への手紙8章5節の「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」を取り上げます。
ここでの肉と霊の意味は、肉体と魂ではありません。肉に従って生きるとは、自分の欲しい物を求めて生きること、神の霊に従って生きるとは、神のみ旨を行うために生きることです。この生き方は全く異なります。神のみ旨を伝えるには、聖霊と関わらなければ難しいのです。
次に、聖霊について聖書を見てみましょう。聖霊の働きは、旧約聖書と新約聖書の両方に出てきます。旧約の時代に現れる聖霊は、特別な人に神さまから与えられています。特別な人とは、神さまから与えられた使命を持っている人、イスラエルの王、指導者、預言者です。
いずれの場合も、神はみ旨を行うとき、使命を果たすために聖霊を与えています。しかし、新約の時代なると、洗礼を受けた全ての人に与えられます。私たちにも、聖書に登場するような指導者モーセ、ダビデや預言者エリヤ、イザヤ、エゼキエルと同じ聖霊が与えられています。私たちも弟子たちと同じような聖霊を受けているのです。私たちもキリストと同じような仕事、使命を与えられているのです。教会の存在する理由は、キリストの使命を実現することです。キリストが人間になったのは全人類を救うためです。
聖霊降臨のとき、聖霊は教会に皆が集まったときに与えられました。だから一人一人に与えられたのと教会に与えられたことはつながっています。教会では、共同体の責任と個人個人の責任はつながっています。教会の聖性は一人一人の努力の結果です。聖性が高まれば、聖霊は、教会を使って神の存在、神の愛を現わされます。それは一人一人の努力の結果です。
つまり私たちは、自分の中にいる聖霊を意識しなければならないのです。私たちも聖霊をもらったのですから、人を救うために働かなければなりません。個人では限りがありますが、力を合わせれば大きな力となります。
最後に、皆様へイエスが昇天する前の御言葉を贈ります。
「あなたがたの上に聖霊が降りると、あなたがたは力を受ける、そしてエルサレムだけでなく、ユダヤとサマリアの土地、地の果てに至るまで、私の証人になる。」
スペイン・ルルド巡礼 グァダルーペ列福式と 聖ホセマリア・エスクリバーの足跡を辿る巡礼 寄稿者O.H
私の家族の歴史は巡礼の歴史です。父と母は新婚旅行で4週間のヨーロッパ巡礼をしました。私が生まれ、妹が生まれ、家族の喜びは大きくなりました。と同時に、困難に出会った時、大病をした時、別れを経験した時、いつも祈りの中で物事を見て、うまく乗り越えられたあとは必ず巡礼に出かけました。マリア様に感謝の祈りを捧げるためです。
今回、酒井補佐司教様と一緒にスペイン・ルルドへの巡礼に出かけようと思ったのも家族の節目にしたかったからです。
2年半前に52歳で急逝した父と共に、「日常生活の聖人」聖ホセマリアの足跡を辿りながら、この世の真只中で聖性を求める生き方を探したいと思いました。
全ての人が聖性に召されているとはどういうことなのか。修道者でない、殉教者でもない、一般信徒が本当に聖人になれるのか。
その答えは、マドリードで参加したグァダルーペの列福式で見つけました。グアダルーペ・オルティスという女性は、聖ホセマリアから様々なことを学んだそうです。神様の望まれるように生きる、深い信仰と豊かな内的生活を基盤として、女性たちや困窮している家族の教育と発展に力を注ぎました。
彼女は化学者でもありました。1975年に59歳で亡くなるまで、日々の生活の中でキリストと出会い、自分の仕事を聖化し、病気を超自然的に捉え、もう一人のキリストになる戦いをした人です。ごくごく普通の信徒でした。
列福式には世界中から何万という人が集まりましたが、深い家族的一致が感じられ、喜びにあふれていました。沢山の信徒がゆるしの秘跡にあずかっていました。老若男女、職業や立場の違う人達が皆家族を大切にし、熱心にごミサにあずかり祈る姿に感銘を受けました。
全ての人が日常生活の中で聖人になる方法をこの目で「見た」ような気がします。例えば、人の悪口を言わない、朝決まった時間に起きる、守護の天使と深く付き合う、こんな小さな戦いが聖性の道の一歩になるのだとわかりました。
恵みをたくさんいただきました。父はもうこの世にいませんが、これからも家族の巡礼の旅は続きます。
