愛を育むための孤独 枚方教会 協力司祭 梅﨑隆一

平成25年(2013)に枚方教会での役割を終えて、平成28年(2016)からは東京の修道院で生活していました。

東京への異動の理由は修道院の掃除と会計の整理でしたから、仕事が終わったらすぐにお払い箱になると思っていたのに、五年間いることになりました。

それとは別に、私個人は孤独を受け入れることを東京での生活の目的の一つにしました。

E・フロム著『愛するということ』によると、「愛」という言葉を使っていても、「愛すること」と「愛されること」の意味することは全く逆であるといいます。

「愛されたい」人は人から認められることを望んでおり、その根底には孤独に対する恐れがある。

人は孤独になると人とのつながりを求めて、人から認められているのか気になってしまう。

LINEに[既読]がついても返信がないことにイライラする原因は、そういったところにあるようです。

マタイ福音書の「山上の説教」には「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。…」(マタイ5章11~12節)とあり、イエスのいう「愛しなさい」は「愛されなさい」ではないことが分かります。

イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)というところまで孤独になられた。

イエスは神の愛を生きるために神からも見捨てられていると感じる孤独を受け入れられた。

だから身に覚えの無いことで嫌われて孤独になっても自分を卑下しないことを練習しようと思いました。

東京には知り合いもほとんどいませんから、孤独になるための良いチャンスでした。

孤独を受け入れ、愛する力を育み、人との関わりがより豊かになるようにと考えました。

でも昔からの友達が高円寺教会を紹介して下さり、また新しい人たちとの出会いがあって、数年が過ぎると素晴らしい人たちに囲まれて、孤独ではなくなっていました。

でも、全ての出会いがいつも心地よいものとは限りません。

身に覚えの無いことで嫌な思いをさせられることは当然ありますし、性格や言動について何らかのレッテルを貼られ、名誉回復がなされないこともあります。

しかし主イエスが私たちに幸いな者として生きることを求めておられるのだから、キリストの背丈にまで成長しようとするためには、受難を避けて生きることはできないようです。

愛は二人以上の人格(神・人間)なしには存在しませんが、愛されるために言いなりになるなら単なる奴隷でしかありません。

奴隷ではなく愛することを生きる神の子どもとなれますよう、共に歩んで行きたいと思います。