人は歳を重ねると老いていくのは自然の成り行きですが、昨日まで出来ていたことが出来ないとなると、能力の低下、肉体的な衰えを認めざるを得ない状況になり、人格までが悪くなって行くようで嫌なものです。今、真にその世代に生きる私がどのように考え過ごせば良いか考えてみました。 “コミュニケーションと ユーモア(寄稿者 枚方教会信徒 M.S) 河北朝祷会より (2018.5.10 第210回)” の続きを読む
再洗礼派メノナイトの歴史(寄稿者 日本メノナイトブレザレン 教団 退職牧師 J.F)河北朝祷会より(2018.4.12 第209回)
ルターの宗教改革は1517年。そのわずか2年後に、ツウィングリがスイスのチューリヒで、市議会とともに宗教改革を始めた。
今日、町の中心部リマト川の畔に立つ彼の銅像は、右手に聖書、左手に剣を握り、聖書に従う改革を剣をもって成し遂げるとの、彼の宗教改革の性格を表しているようだ。彼はルターの改革をさらに聖書に従って進め、幼児洗礼に反対を表明していた。 “再洗礼派メノナイトの歴史(寄稿者 日本メノナイトブレザレン 教団 退職牧師 J.F)河北朝祷会より(2018.4.12 第209回) ” の続きを読む
真理の自由(日本基督教団 森小路教会 J.S) 河北朝祷会より(2018.2.6 第207回)
(ヨハネによる福音書 8章31、32節)
この聖句は、あちらこちらの図書館や学校に掲げられていることがあります。ある意味真理とか自由と言いますとアカデミックで思想的な香りがするものです。学校自体が真理なるものの探究というのを目指していますし、図書館というのは知識の宝庫です。またリベラルアーツというように、自由というのは学問的態度と結びついているのではないでしょうか。 “真理の自由(日本基督教団 森小路教会 J.S) 河北朝祷会より(2018.2.6 第207回)” の続きを読む
種まきのたとえ ー茨木東教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.12.14 第206回)
教会に導かれて知ることとは、主イエス・キリストがどのようなお方であるかということです。主イエス・キリストは、私たちが主を信じることに先立って私たちを受け入れてくださり、十字架の上で死んで私たちの罪を赦してくださり、三日目の復活によって新しいいのちへと導いていてくださる方です。主イエスは罪人を愛し、その死への運命を憐れみ、死と滅びから救ってくださった方です。この恵みを知らされ、人は悔い改めに導かれたのです。この私たち自身が、み言葉が語る良い土地です。 “種まきのたとえ ー茨木東教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.12.14 第206回)” の続きを読む
主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう。 ーカトリック枚方教会 T.Fー 河北朝祷会より (2017.11.9 第205回)
これは、日本のカトリック教会の聖体拝領前に唱える言葉です。信仰の宣言と、キリストから離れない決心を表したような言葉です。ミサや礼拝の中で特別にキリストを近くに味わうことのできる聖体拝領、聖餐式は、イエスさまの遺してくださった人類への宝だと思います。神さまを頂く宗教、永遠のいのちのパンを頂く宗教が他にあるでしょうか。 “主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう。 ーカトリック枚方教会 T.Fー 河北朝祷会より (2017.11.9 第205回)” の続きを読む
為政者のために丁寧に祈れ -枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.10.12 第204回)
衆議院議員選挙が近づいているが、教会では、政治のことについて語るのは避けるべきだという風潮がある。その理由として「政教分離」の原則だから、と言われたりするが、政教分離は、政治が宗教に関わってはいけないということで、教会で政治のことを話題にしてはいけないということではない。聖書はこのことについて、どう言っているだろうか。 “為政者のために丁寧に祈れ -枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.10.12 第204回)” の続きを読む
「常識。それ本当?」 ーカトリック枚方教会信徒ー 河北朝祷会より (2017.9.14 第203回)
今日、お話しするのは、教会は外の世界が求めるものに通じる言葉をもっているだろうかということです。今、社会活動委員会にいます。主に平和運動、学び、福島原発やフィリピンのストリートチルドレン、あるいはアフガンのペシャワール会の平和的国際貢献の支援、釜ヶ崎の手伝いなど、 社会の福音化、教会の本来の活動の旗振りです。その他に教会の人達が、それぞれのあり方で必要な人の相手をしています。 “「常識。それ本当?」 ーカトリック枚方教会信徒ー 河北朝祷会より (2017.9.14 第203回)” の続きを読む
サムエル記上1章21~28節 ー森小路教会ー 河北朝祷会より (2017.7.13 第202回)
預言者サムエルはイスラエルの歴史において大きな役割を果たした神の人であります。 しかし、少年サムエルが祭司エリのもとで主に仕えていた時は、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれでありました(3・1)。なぜなら、聖なる神様を汚す人間の堕落した行為があったからでした。それにもかかわらず、神様はご自身の業を成すために、人を選び、私たち人間の世界を導いてくださったのです。 “サムエル記上1章21~28節 ー森小路教会ー 河北朝祷会より (2017.7.13 第202回)” の続きを読む
信徒の召命と使命 ーカトリック枚方教会信徒 P.Kー 河北朝祷会より (2017.6.8 第201回)
「沈黙」の映画、高山右近の列福にあたって、いく人かの信者が、心配や失望の気持ちで、「キリスト教はこの国に何の有益をもたらしたか?なぜキリスト教徒は最初と比べて、成長しないか?」と自問しました。
この危機の時に、大切なことはキリスト教の起源に返ることです。私達はイエスの弟子の継承者であることを実感しています。各々の信者は、神を探し求め、キリストに選ばれ、それぞれの立場と状況において、自分の使命を果たす様に呼ばれています。何のためにイエスに呼ばれていますか? “信徒の召命と使命 ーカトリック枚方教会信徒 P.Kー 河北朝祷会より (2017.6.8 第201回)” の続きを読む