丁寧に生き、丁寧に死ぬように
-コロナの時代に自分と向き合う為のひと時-
クラレチアン宣教会 フリオ神父

毎日、セミの声が聞こえ、真夏を輝かせる太陽が続いています。

枚方教会の皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

気温の上昇と共に、マメに水分補給をして、自己管理に努めながら、感染リスクを減らし健やかに過ごされていることを願っています。

さて、9月の巻頭言の担当に当たりまして、新型コロナウイルスのこの時代に、お気に入りの神学者ヘンリー・ナウエン「今日のパン、明日の糧」の本から一つの記事を参考にして、「丁寧に生き、丁寧に死ぬように」について、共に振り返ってみたいと思います。

私たちはみな、何らかの原因でいつの日かこの世を去ります。

死は、私たちが確かなこととして知っている数少ないものの一つですが、本当に丁寧に死ぬことができるでしょうか。

それは、あまり確かではありません。

しかし、私にとって、「丁寧に死ぬ」とは、先ず、「丁寧に生き」、そして他の人々のために命を懸けて死ぬこと、後に残る人々に対して、私たちの生涯を実りあるものとすることだと思います。

したがって、重要な問いは、「残りの年数で何がまだできるか」ではなく、「私の後に続く世代の人々の間で、私の人生が、実をもたらし続けるために、どのような生活や生き方を送り自分の死を準備するか」ということでしょう。

つまり、何よりも先ず、人の為に「丁寧に生きる」ことですね。

主イエス・キリストは、良く死ぬことができたと思います。

というのもその死によって、イエス様は、「愛の霊」をご自分の弟子たちに送られたからです。

イエス様の弟子たちは、聖霊によって、よりよい生涯を送ることができました。

私たちが、家族や友人たちから離れる時、「愛の霊」を送ることができるでしょうか。

それとも私たちは、まだ何ができるかを思い込み心配しているでしょうか。

もし丁寧に死ぬための準備をするつもりなら、「死」は、私たちの最も素晴しい贈り物となるでしょう。

親愛なる皆さん、いつくしみ深い神の命に生かされていることに気付き、実り豊かな日々を送り続けることができますように。

アーメン

祈り、祈られ、支え合う
主任司祭 長崎壮

長崎神父写真

枚方教会の信者の皆さん、長い自粛生活を本当にお疲れさまです。

今年は私たちキリスト信者にとって最大の祝いである復活祭をはじめ、四旬節から復活節のほぼ全ての典礼と行事が空白となる異例の事態となりました。

信者さん同士の交わりの機会も失われ、心細さを感じながらの日々であったと思います。

そのような期間を耐え忍ばれた皆様に対してお掛けしたい言葉はやはり心からの「お疲れさま」です。

自粛期間中、教会に入る信者さんからの問い合わせではミサへの参加を待ちわびていることがひしひしと伝わってきましたが、ミサの中止が始まって間もなくの頃、電話でひとりの信者さんから「神父さんは、教会に行かない私のことを怒っていませんか」と問われました。

私はその人の心の清さに打たれましたが、「あなたをはじめ、教会に来ることができない全ての信者さんに代わって祈りますから、お辛いでしょうけれど今しばらく御自宅で辛抱してください」と答えるのがやっとでした。

専門家でさえも意見が割れる新型コロナウイルスの脅威を前にして牧者として全くの無力さを感じた瞬間です。

その一方で、公開ミサ自粛の間、個人的なお祈りで訪れる信者さんと話す機会もあり、「ミサの自粛を通じて、ミサの力の大きさにあらためて気づきました」という声や「これほどよく祈った期間はありませんでした」という声を聞いた時には私も勇気づけられました。

さて、目に見えない新型コロナウイルスの蔓延が私たちに示した〝時のしるし〟から私たちは色々なメッセージを読み取ることができます。

そのひとつ、この自粛期間中に私が度々思い出したのは昨年来日された教皇フランシスコが私たちに投げかけられた「すべての命を守るため…」ということばです。

神様からいただいた賜物である命、自分の命はもちろんのこと、大切な人の命を守るためには神様からのお恵みと同時に私たちの方からも会いたい人に会うこと、平常時であればできたであろう楽しみを犠牲として捧げる協力をしなければなりませんでした。
 
いまだ予断をゆるさない状況が続く中、私たちキリスト信者は互いに祈り、祈られ、支え合いたいものです。

相手のために祈ることも大切ですが、自分も祈られていることを感じる体験は信者の集まりである教会の絆を強固にします。

健康に不安を抱え教会に来ることができない方も沢山いますが、その方々の分までよく祈りましょう。

そして来られない信者さんの側も、枚方教会には自分のためにお祈りしている兄弟姉妹がいることを信じ、キリスト信者の連帯感を感じていただきたいと思います。

公開ミサの再開

3月から中止されていた公開ミサが6月13日(土)19時から再開されました。

ミサの再開に当たっては、長崎神父から各家庭に手紙を送付され、種々の注意事項連絡と共に、それぞれの家庭をA地区(8時30分)、B地区(10時)、C地区(11時30分)の3地区に分けられ、日曜日のミサを地区ごとに3回実施されました。

この対応により土曜日の夜のミサを含めて主日のミサ4回のいずれかに参加することができ、枚方教会の信者は毎週ミサにあずかれることになりました。

神父さま方のご尽力に感謝します。

ミサ参加に当たっては、①マスクの着用、②記名カードに記入、③献金、④手指の消毒、⑤紙コップの置かれた席に着席、の手順により感染防止の対応がなされ、スムーズな流れでミサが行われました。

ミサ再開に向けて準備をして頂いた方、また各ミサ後の清掃・消毒にご協力いただいた方に感謝いたします。

引き続きご協力の程よろしくお願いします。

私と枚方教会の出会い
枚方教会信徒I.K

大阪に居を構えて今年で10年になります。

当初は、当時住んでいた近くに門真教会、今市教会があり、不定期ではありますがミサに参加したのが、大阪での私のカトリック教会での第一歩でした。

カトリック教会のことなどわからないままに40年が過ぎ、正直ただお祈りをするためにだけ、ミサに参加していたような感じでした。

一年後、居を移すことになり家を探している時に、京阪電車から丘の上にある薄緑色の尖頭が2つそびえる枚方教会が目に入りました。

何と美しい教会だろう、遠い昔に夢見たような何か包み込まれるような思いで誘われるままに、春の麗らかな日差しの中で枚方市駅から妻と教会を探しながら歩いて、初めて訪れたのが私と枚方教会の出会いです。

私は、そこで一人の神父と出会うのですが、その神父の話の中で「人は人生なんて思い通りにならない、ということをよく言うけれど、それは違う。

誰もが思い通りになっているのですよ。

例えば、夢が破れ、不本意だけど諦めて仕方なく違う道に進んだとか、もっと良い人と結婚できたけど、あなたみたいな人と結婚してしまったとか、でもそれは他の誰でもなく、あなたが選択したのだから、それはそれであなたの思う通りになっているのですよ。

なぜなら、人は、誰もが『自由と選択』を与えられているのですから、あなたの思う通りになっているのですよ。

だから、こんなはずじゃなかったとか、運が悪かったとか、いつも貧乏くじは私だけとか、不平不満を言うのではなく、命与えられたあなたの人生を大切に思い、また、他の人の人生も同じように大切に思うことが、主の私達に示す愛なのです。」

と言われた言葉が心に残っています。

さて、「出会い」とは何でしょう?

両親との出会い、

いたずらをして二人して廊下に立たされた友との出会い、

教科書だけでなく人としてどうあるべきかを教えてくれた恩師との出会い、

切なくて眠れない夜が続いた恋人との出会い、

旅先で二言三言会話をしただけなのに何か記憶に残る人との出会い、

愛らしくいつもまとわりつき心が癒されたペットとの出会い、

私を見守り、私の洗礼を何も言わず、静かに待ち続け、そして、授けてくれた神父との出会い、

書店でふと手にした一生の本、

聖書との出会い、

そして、自分自身の罪を認め、神を信じた日の出会いのように善い出会いもあれば、

不幸にして予期せぬ災害や事故、紛争に出くわした悪い出会い、

目に見えないほんの小さなウイルスが今、日本をはじめ、世界中を脅かしている新型コロナウイルスのような悪い出会いもあります。

私は、「出会い」とは、創世記に出て来る「善悪を知る木」に似ていて、善い出会いは人に感動を与え、悪い出会いは人に試練を与える、そのように思えるのです。

誰もが人生の中で感動し、胸震わせる、幸せな時があります。

また、反対に悲しみや苦しみに打ちひしがれ耐える時もありますが、神はその人が耐えうる試練しかお与えになりません。

私は、私に与えられた時間の中で、一つでも多く感動する出会いを求め、この貴重な一瞬一瞬を私が生きた証として、その日が来るまで、祈り歩き続けたいと思います。

最後に私が壁に当たった時にいつも力を与えてくれる御言葉です。

マタイによる福音書の中から、7章7節「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見出す。たたきなさい、そうすれば開かれる」。

教会一致(エキュメニズム)の 実践である朝禱会

初代教会の頃から何らかの分裂を経験したカトリック教会は、後代になって、広範囲にわたる不一致を経験しました。

カトリックに対抗するものとしてプロテスタントと言われる教会の分裂です。

しかし、プロテスタントの人々も信仰によって洗礼において義とされ、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けています。

カトリックとプロテスタントの信者は、キリストにおいて当然兄弟なのです。

言うまでもなく、教理、規律、信仰の表し方などで少なからぬ違いがあり、これが一致のために重大な障害となってきました。

キリストを信じるという共通の立場に立って、この障害の克服を目指しているのがエキュメニズム運動です。

第二バチカン公会議の「エキュメニズムに関する教令」は次のように述べています。

「今日、世界の多くの地域で、多くの人が聖霊の恵みの息吹により、祈りとことばと行動によって、イエス・キリストの望む一致の完成に到達するために努力している。

そのためこの聖なる教会会議(公会議)はすべてのカトリック信者に対し、時のしるしを知って、エキュメニズムの事業に賢明に参加するよう勧告する。」

今、全国各地で行われている「朝禱会」は、1957年1月に、「大阪クリスチャンセンター」でプロテスタント諸教派の方々が、共に祈り分かち合う集いを持たれたことから始まりました。

当初は「大阪朝食祈祷会」という名でしたが、しばらくして「大阪朝禱会」と改められました。

ここに神戸、京都、奈良など遠方からの参加者も加わり、毎月の集いが100人を超える大きなものになっていきました。

そして大阪以外にも設立の機運が高まり、やがて全国へと広がりを見せたのでした。

次のような綱領も作成されました。

1.朝禱会は、イエス・キリストを信じるすべての人々に開かれた超教派の祈りの運動である。

2.朝禱会は、共にキリストの愛に生かされている者たちの一致を求め、福音の前進と主にある平和を祈る。

3.朝禱会は、御言葉に聴き、賛美を献げ、心を合わせて祈り、食卓を共にして交わりを深める。

1980年頃から第二バチカン公会議の勧告を受けて、カトリックからの参加者が増えました。

エキュメニズムの具体的な実践として評価された朝禱会は、各地のカトリック教会が集いの場として提供されるようになりました。

枚方教会では、マルセリーノ神父が設立に積極的に関与されて、「大阪河北朝禱会」として1999年(平成11年)に発足し、4月8日に第1回の集いが持たれました。

以後朝禱会は、毎月(8月を除く)第2木曜日の午前7時から枚方教会において開催されているのです。3~6月はコロナの影響で中止しましたが、7月は9日に開催の予定です。

朝禱会は約1時間の集いで、「第1部・祈り」、「第2部・交わりと食事」となっています。

第1部は、讃美歌(聖歌)、聖書朗読、主の祈り、奨励(講話)、平和を求める祈り(アッシジの聖フランシスコ)、各自の祈りで構成されています。

また第2部は、軽い食事をしながら自由に分かち合います。

参加は自由です。どなたでも気軽に参加してください。

主日ミサ再開とミサ参加の地区割制導入についてのお知らせ

♰ 主の平和が皆さんとともに


カトリック枚方教会ではこのたび新型コロナウイルス感染症予防のための措置としての公開ミサ中止を解除し、主日の公開ミサを6月13日(土19:00)より再開することを決定いたしました。

しかし、この決定の後、各地でのクラスター(集団)感染の発生等、予断をゆるさないことに変わりがないため、信徒の皆様ひとりひとりの健康と安全を鑑み、一回のミサの参加者数を限定する必要に迫られ、急遽各ミサの参加者を地区割制にさせていただくことになりました。

なお、基礎疾患をお持ちの方、健康に不安をお持ちの方は、公開ミサ中止期間と同様に感染拡大が完全収束するまで主日ミサに参加する義務は免除されます。

引き続き健康に御留意のうえ、家庭でみことばの黙想や祈祷書を用いた祈り、ロザリオ等を通じて祈り下さい。

★土曜日19時からの主日ミサには地区割制を導入しておりませんので自由にご参加ください。

★6月16日より平日の火曜日と木曜日の10時よりミサを再開いたします(6月)が、このミサは主日ミサに参加できなかった人のためのものとします。

★第三主日9時から行われていたこどもミサは、場所をうみのほし幼稚園講堂に移して従来通り9時から行います。

★主日の外国語のミサ、ポルトガル語(第1主日15時)、英語(第2主日15時) ミサには変更がありませんが、スペイン語ミサのみ第4主日の15時と16時の二回行います。

※なお教会に行くことに不安をお持ちの方で諸秘跡をご希望の方は、司祭にご連絡を頂けましたら、ご家庭まで聖体を奉持するほか、病者の塗油、赦しの秘跡などもお授けすることができますので是非教会までご一報ください。


     2020年6月1日
 枚方教会主任司祭 長崎壮

主日ミサの地区割


6月14日より当面の間、以下の地区割に従ってミサに御参加ください。

A地区の方は8:30開始のミサ、 B地区の方は10:00開始のミサ、 C地区の方は11:30開始のミサにそれぞれ御参加ください。

皆が安全にミサに参加できるように、指定された地区以外のミサへの参加はお控えいただきますようお願いいたします。

【A地区】 8:30開始
枚方中央 枚方公園 牧野 招堤 片鉾・田口 御殿山 中宮・禁野

【B地区】 10:00開始
交野西 交野東 茄子作・釈尊寺 山之上・香里 宮之阪・村野 寝屋川・市外

【C地区】 11:30開始
八幡 松井山手 樟葉 長尾・津田・国道東 長尾西

【神との出会い 人との出会い】
すべての出会いが神様のご計画
枚方教会信徒 U・R

「出会い」とは大きなテーマですが、今までに様々な出会いがあったように思います。

あったように…というと少し変ですが、自分でも気が付かないけど大きな出会いもあると思います。

例えば神様との出会いは生まれるずっと前なのに、私が気付いたのはずっと後のことです。

今までの人生で様々な出会いがありましたが、枚方教会との出会いについて振り返ってみたいと思います。

数十年前、私は京阪電車に乗って京都の学校まで通っていました。

窓から見えるかわいい三角屋根を毎日見ていました。

私の持っていた教会のイメージにピッタリの建物です。

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ヘンデルの「メサイア」
すばらしい演奏会を体験!
枚方教会信徒 T・Y

キリスト教一致祈祷週間最終日の前日(1月24日)午後7時から、マラナ・タ教会主催の「メサイア」が枚方教会聖堂で開催された。

通常「メサイア」は、大編成のオーケストラと200人を超える合唱団で大きなコンサートホールで演奏される。

ベートーベン「第九」と共に年末のクラシック界2大イベントとなっている。

今回はかなりの小編成で、久下牧師によれば「素人の合唱グループ」とのこと、また会場も音楽会にふさわしい場所ではないのかと危惧していた。

しかし本来、メサイア誕生の秘話としては、慈善や慰安のために小編成での合奏合唱が行われたようで、この演奏会はその精神に合致していると合点した。

そしてM・Y氏の指導のもと、半年以上かけられた熱心な練習と、団員がワンチームとなって培われた成果が爆発したような一夜となった。

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新しく創造された者
旭基督教会牧師 岸本大樹
河北朝祷会より (2020.2.13 第230回)

使徒パウロは私たちに語ります。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二5章17節)

「キリストと結ばれる者はだれでも」とパウロは言います。

これを自分のこととして受け止められる方は幸いです。

しかし、このように受け止められる方はあまり多くなくて、「私は何年も前に洗礼を受けたけれども、新しく創造された者どころか、古くてダメな人間だ」と考えるクリスチャンが多いように思います。

私たちがキリストに会って新しく創造者であるということを受け止めるためには、次の18節以下を正しく理解する必要があります。

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旭基督教会牧師 岸本大樹
河北朝祷会より (2020.2.13 第230回)” の
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四旬節 《本当の幸せを求めて》
助任司祭昌川信雄

よく耳にする疑問や質問があります。

*「人類を救うために来られた神様は、敵に身を任せて自分の命を捨てて逝きました。この方を『救い主』と崇めていますが、どのように私たちを救ったというのですか?」

*「苦しいとき、『祈りなさい。神さまとお話しなさい』と勧められますが、神様からは一向に返事がありません。ネット検索の方が手っ取り早いです。」

*「『許しなさい、自我に死になさい』と言われても、私には無理。どうしてそんなことが出来るのでしょう?」

座席99・9%の乗客がスマホと向き合っている昨今。

このような質問に言葉を尽くして名解答を与えたとしても、おそらく世の人々に体で納得してもらえないもどかしさを感じます。

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