これは、日本のカトリック教会の聖体拝領前に唱える言葉です。信仰の宣言と、キリストから離れない決心を表したような言葉です。ミサや礼拝の中で特別にキリストを近くに味わうことのできる聖体拝領、聖餐式は、イエスさまの遺してくださった人類への宝だと思います。神さまを頂く宗教、永遠のいのちのパンを頂く宗教が他にあるでしょうか。 “主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう。 ーカトリック枚方教会 T.Fー 河北朝祷会より (2017.11.9 第205回)” の続きを読む
為政者のために丁寧に祈れ -枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.10.12 第204回)
衆議院議員選挙が近づいているが、教会では、政治のことについて語るのは避けるべきだという風潮がある。その理由として「政教分離」の原則だから、と言われたりするが、政教分離は、政治が宗教に関わってはいけないということで、教会で政治のことを話題にしてはいけないということではない。聖書はこのことについて、どう言っているだろうか。 “為政者のために丁寧に祈れ -枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より (2017.10.12 第204回)” の続きを読む
「常識。それ本当?」 ーカトリック枚方教会信徒ー 河北朝祷会より (2017.9.14 第203回)
今日、お話しするのは、教会は外の世界が求めるものに通じる言葉をもっているだろうかということです。今、社会活動委員会にいます。主に平和運動、学び、福島原発やフィリピンのストリートチルドレン、あるいはアフガンのペシャワール会の平和的国際貢献の支援、釜ヶ崎の手伝いなど、 社会の福音化、教会の本来の活動の旗振りです。その他に教会の人達が、それぞれのあり方で必要な人の相手をしています。 “「常識。それ本当?」 ーカトリック枚方教会信徒ー 河北朝祷会より (2017.9.14 第203回)” の続きを読む
サムエル記上1章21~28節 ー森小路教会ー 河北朝祷会より (2017.7.13 第202回)
預言者サムエルはイスラエルの歴史において大きな役割を果たした神の人であります。 しかし、少年サムエルが祭司エリのもとで主に仕えていた時は、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれでありました(3・1)。なぜなら、聖なる神様を汚す人間の堕落した行為があったからでした。それにもかかわらず、神様はご自身の業を成すために、人を選び、私たち人間の世界を導いてくださったのです。 “サムエル記上1章21~28節 ー森小路教会ー 河北朝祷会より (2017.7.13 第202回)” の続きを読む
信徒の召命と使命 ーカトリック枚方教会信徒 P.Kー 河北朝祷会より (2017.6.8 第201回)
「沈黙」の映画、高山右近の列福にあたって、いく人かの信者が、心配や失望の気持ちで、「キリスト教はこの国に何の有益をもたらしたか?なぜキリスト教徒は最初と比べて、成長しないか?」と自問しました。
この危機の時に、大切なことはキリスト教の起源に返ることです。私達はイエスの弟子の継承者であることを実感しています。各々の信者は、神を探し求め、キリストに選ばれ、それぞれの立場と状況において、自分の使命を果たす様に呼ばれています。何のためにイエスに呼ばれていますか? “信徒の召命と使命 ーカトリック枚方教会信徒 P.Kー 河北朝祷会より (2017.6.8 第201回)” の続きを読む